第8話(閑話):売国奴の狂乱と、破滅への署名
第8話(閑話):売国奴の狂乱と、破滅への署名
王都シュトゥルムの高級住宅街にそびえ立つ、バルテルス侯爵の豪邸。
かつては連日のように派閥の貴族たちが集い、夜な夜な豪奢な宴が開かれていたその屋敷は今、葬儀場のような静寂と陰鬱な空気に包まれていた。
「……あと、十日だ。丞相閣下との約束の期限まで、あと十日しかない……!」
薄暗い執務室の中、バルテルス侯爵は血走った目で虚空を睨み、爪を噛みちぎる勢いで震えていた。床には空になった最高級ワインのボトルが散乱し、彼の身なりはかつての威厳など見る影もないほど乱れている。
他領地からの「辺境と同じ特権をよこせ」という突き上げは日増しに激しくなり、財務派閥に属していた貴族たちも次々と侯爵を見限り、保身に走っていた。
もはや国内において、侯爵の手足となって動く兵も、政治的な味方も存在しない。彼は政治家として、すでに『死に体』であった。
「閣下。お客様をお連れしました」
重い扉が開き、側近のルキウス・ラングナー子爵が入室してきた。
常に計算高い薄笑いを浮かべていたラングナーの顔にも、今や隠しきれない疲労と焦燥の色が濃く滲んでいる。彼もまた、隣国からの裏金が途絶えたことで、多額の負債を抱え首が回らなくなっていたのだ。
ラングナーの後ろから、豪奢な毛皮のコートを羽織った大柄な男が姿を現した。
東の隣国ゼムリャの特命全権大使、イゴール伯爵である。
「夜分遅くに失礼するよ、バルテルス侯爵閣下。随分と……お疲れのようだ」
「イゴール大使! おお、よくぞ来てくれた!」
侯爵は椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がり、すがるように大使の手を握った。
「頼む! ゼムリャの軍を動かしてくれ! 辺境都市ヴォルフスブルクに巣食う、あのエルンストとアレンという反逆者どもを、貴国の武力で蹂躙してほしいのだ! 奴らを殺し、あの忌々しい『青樽』の製造施設を破壊してくれれば、我が国におけるゼムリャ商会の関税を、永久に免除しよう!」
なりふり構わぬ侯爵の懇願に、イゴール大使は冷ややかに目を細めた。
「侯爵閣下。お言葉ですが、我がゼムリャ国軍は貴方の私兵ではありません。いかに貴方が財務のトップとはいえ、他国の領土に無断で軍を入れれば、それは明確な『侵略行為』。貴国の防衛軍や近衛騎士団との全面戦争になりますぞ。我々にそこまでのリスクを負えと?」
「王都の軍は動かん! 動かさせない! 財務局の権限で、防衛軍の予算を完全に凍結してやる! だから——」
「口約束では不十分だということです」
イゴール大使は冷酷に言い放ち、懐から一枚の豪奢な羊皮紙を取り出して机の上に叩きつけた。
「軍を動かすには『大義名分』が必要です。……ここに、我がゼムリャ国軍が、ヴォルフスブルクにおける『治安維持と反乱鎮圧の支援』を目的として、貴国の国境を越え、武力を行使することを『王国側が公式に要請・許可する』という旨が記されています」
「なっ……!?」
侯爵の息が止まった。
それは単なる密約ではない。王国の重鎮の署名と国璽に連なる公印が押されれば、それは「合法的に他国の軍隊を自国内へ招き入れる」という、動かぬ『売国文書』となる。国家反逆罪、いや、外患誘致という極刑中の極刑に該当する行為だ。
侯爵は震える手で羊皮紙を見つめ、ラングナーを振り返った。
「ラ、ラングナー……これを、私が……?」
「閣下、もはや我々に選択肢はありません」
ラングナーは血を吐くような声で、侯爵の耳元で囁いた。
「十日後、丞相閣下に首を差し出しますか? それとも、この書類にサインをして辺境の反逆者を皆殺しにし、再び権力を握り直しますか? 辺境が焼け野原になれば、何もかも闇の中です。……サインを」
少しでも理性が残っていれば、隣国がこの書類を盾に、辺境のみならず王国全体への侵略を正当化するつもりであることなど、容易に想像がついたはずだ。
しかし、極限の恐怖と保身に狂った侯爵と子爵の脳裏には、もはや「自分たちの延命」しか見えていなかった。
「……そうだ。私が、この国の経済を回してきたのだ。私こそが正義だ……!」
侯爵はうわ言のように呟きながら羽ペンを握りしめ、インク壺に乱暴に突っ込んだ。
そして、王国財務卿としての絶対的な権威を示す公式な署名を記し、己の血のように赤い蝋を垂らして、侯爵家の印章を力強く押し付けた。
「……見事なご決断です、侯爵閣下。我がゼムリャの誇る精鋭部隊『鉄の爪』は、すでに国境付近で待機しております。すぐに進軍の命を下しましょう」
書類を懐に収めたイゴール大使の唇が、三日月のようにつり上がった。
(愚か者めが。自ら国庫を空にした挙句、我が国に侵略のフリーパスを渡すとは。これでヴォルフスブルクの技術も、この国の領土も、すべて我々ゼムリャのものだ)
隣国の使者は、腹の底で王国を嘲笑いながら屋敷を後にした。
「はは……はははははっ! これで終わりだ! あの小生意気なヴィクトルも、わけのわからん紙切れを出す騎士も、すべてゼムリャの軍靴に踏み潰されるのだ!」
誰もいなくなった執務室で、侯爵は狂ったように笑い声を上げた。ラングナーもまた、安堵のあまりへたり込み、濁った笑いを漏らしている。
自らの手で国家の首に縄をかけ、死神の足音を「救い」だと錯覚して歓喜する二人の売国奴。
彼らは知る由もなかった。
自分たちがけしかけた隣国の精鋭部隊が、辺境に待ち構える『現代科学と経済の結晶』によって、赤子のように捻り潰される運命にあるということを。そして、この狂気の署名こそが、彼ら自身を断頭台へと送る決定的な証拠となることを。




