第1話:路地裏の叡智と、反逆の青写真
第1話:路地裏の叡智と、反逆の青写真
王都シュトゥルムを覆っていた分厚い雨雲は、城壁の外れにある小さな丘までは届いていなかった。
雨上がりの湿った風が吹き抜ける大きな樫の木の下で、二人の青年が息を整えていた。眼下には、鉛色の空の下で凍えるようにうずくまる巨大な王都の街並みが広がっている。
「……信じられない。いや、信じたくないが、この計算式はあまりにも美しすぎる」
泥だらけの上等なコートを着た元エリート文官、ヴィクトル・フォン・エルンストは、手にした奇妙な装丁の「本」に文字通り齧り付いていた。
彼の瞳の奥で淡く光る『森羅の翻訳眼』が、アレンの召喚した『現代マクロ経済学』の文字列を猛烈な勢いで異世界の言語へと変換し、脳内に知識の奔流を叩き込んでいる。その表情は、恐怖にも似た歓喜に歪んでいた。
「おいおい、そんなに見つめたら紙に穴が空くぞ。ただの燃えないゴミだろ、それ」
少し離れた草むらに寝転がり、アレン・クロムウェルは呆れたように息を吐いた。
王都の暗殺者を『粉塵爆発』で吹き飛ばし、共に街を脱出して数時間。ヴィクトルは丘に辿り着くなり、アレンが持っていた何冊かの専門書を奪い取り、一心不乱に読み耽っているのだ。
「アレン。お前は、自分のスキルがどれほど恐ろしいものか全く理解していない」
ヴィクトルは本から顔を上げ、血走った目でアレンを見た。
「王都の財務卿……あの腐れ侯爵は、国の借金を減らすために魔石税を引き上げ、公共事業を削減した。彼らは『国庫の金が尽きれば国が滅ぶ』と本気で信じている。金貨の量こそが国の富だと錯覚しているんだ」
「違うのか? 金がなきゃ飯は食えねぇし、剣も買えねぇだろ」
「個人の家計ならそうだ。だが、国家規模のマクロ経済では根底から違う! この本によれば、貨幣とはただの『負債の記録』であり、血液に過ぎない。真の国富とは、金貨の数などではなく……国民が物を生産し、サービスを提供する力、すなわち『供給能力』そのものなんだ!」
ヴィクトルは立ち上がり、熱病に冒されたように王都を指差した。
「侯爵の増税と緊縮財政は、国民から消費を奪い、労働の機会を奪い、結果として我が国の『供給能力』を徹底的に破壊している。自ら国の首を絞めているんだよ。……だが、もし私がこの本に書かれている『信用創造』と『積極財政』の概念を用いればどうなる?」
「……どうなるんだよ」
「無から莫大な富を生み出せる」
ヴィクトルは震える手で自身の胸を叩いた。
「私が向かう辺境都市ヴォルフスブルク。あそこは貧しいが、未開拓の土地と働き手だけは余っている。私が領主として独自の『領地債』を発行し、それを担保に領民に仕事を依頼する。橋を架け、畑を拓かせる。金貨が無くとも、領主たる私の『信用』で経済を回すんだ。需要を生み出せば、領民の供給能力は爆発的に活性化する」
「ちょっと待て」
アレンが身を起こし、頭を掻いた。
「お前の頭の良さは分かったが、一つ問題がある。いくらお前が紙切れで『信用』を作って仕事をさせようとしても、肝心の『燃料』がない。王都があのザマだ、辺境に回ってくる安い魔石なんてねぇぞ。暖も取れず、鉄も打てなきゃ、いくら頭でっかちの経済論を振りかざしても領地は回らねぇ」
アレンの極めて現実的な指摘に、ヴィクトルは不敵な笑みを浮かべた。
そして、彼が抱えていたもう一冊の本――『基礎化学・熱力学編』をアレンに向けて掲げた。
「だからこそ、お前がいるんだろう? アレン」
「あ?」
「お前は先ほど、ただの小麦粉と種火で、あの路地裏を吹き飛ばした。この本には、私が全く理解できない数式と図解で、物質の燃焼や変換の法則が記されている。……アレン、お前ならこの知識を使って、高価な魔石に代わる『新たな熱源』を作り出せるのではないか?」
アレンは目を瞬かせた。
自分の『ガラクタ・コール』で出てきた意味不明な本。それをパラパラと眺めて、なんとなく魔法に応用していただけの知識。それが、一国の経済を根底から支えるインフラになるというのか。
「……辺境には、使い道のない『雑草』や『魔物の死骸』が腐るほどあるんだろ?」
「あぁ、山のようにある」
「なら……俺の魔法と、この本に載ってる『発酵』とか『精製』って化学の理屈を組み合わせりゃ、そいつらからドロドロに燃える液体を錬成できるかもしれねぇ。魔石の十分の一のコストでな」
アレンの言葉に、ヴィクトルは空を仰いで高らかに笑った。
「素晴らしい! 完璧だ! 私が『領地債』で莫大な資金の流れを作り、お前が『現代科学』で圧倒的なエネルギーと物資を生産する。需要と供給が完全に噛み合う! アレン、我々二人が組めば、あの王都の財務卿が百年かかっても成し得ない莫大な財産を、たった数年で築き上げることができるぞ!」
狂気すら孕んだ天才文官の歓喜の声が、丘に響き渡る。
アレンは呆れながらも、自身の胸の奥底で、かつて騎士団を追放された時に消えかけていた熱い感情が再び燃え上がるのを感じていた。
「……ま、路地裏で野垂れ死ぬよりは、面白そうな博打だな。乗ってやるよ、ヴィクトル」
「博打ではない、必然だ。我々が、この世界の遅れた常識を蹂躙するんだ」
ヴィクトルは泥だらけの右手を差し出した。
アレンは鼻で笑いながら、その手を力強く握り返した。
「さあ、行こうかアレン。我々の新たな領地……そして、この腐りきった王国をひっくり返す、反逆の拠点へ」
二人は振り返ることなく、凍てつく王都に背を向けた。
彼らが歩みを進める先、辺境都市ヴォルフスブルクの方角の空には、雨雲の切れ間から微かに黄金色の陽光が差し込み始めていた。




