第11話:王都の恐慌と、売国奴の末路
第11話:王都の恐慌と、売国奴の末路
王都シュトゥルムは、かつてないパニックの坩堝と化していた。
「ゼムリャの軍だ! 東の国境を越えて、隣国の大軍が攻めてきたぞ!!」
行商人や国境付近の難民からもたらされたその凶報は、枯れ野に火を放つような勢いで王都中を駆け巡った。
『燃料特別税』による物価高でただでさえ疲弊しきっていた民衆は、突如として迫り来る戦争の恐怖に完全に正気を失った。市場では残された食糧や魔石の略奪騒ぎが起き、我先にと王都から逃げ出そうとする馬車が城門に殺到して大渋滞を引き起こしている。
混乱は市井だけにとどまらない。王城の政務室には、王国各地の領主たちから早馬が次々と飛び込み、問い合わせと救援要請の書簡が雪崩のように積まれていった。
『なぜ隣国の軍が領内を闊歩しているのか』『王都の防衛軍は何をしているのか』『すぐに迎撃の兵を向けろ』。
しかし、肝心の財務局が機能不全に陥り、軍を動かすための予算承認が完全にストップしているため、王国軍は出撃の準備すらできずに駐屯地で右往左往するしかなかった。
国家の機能は、完全に麻痺していた。
* * *
その頃、暴徒化する民衆の喧騒から隔絶されたバルテルス侯爵の豪邸。
執務室の分厚いカーテンは固く閉ざされ、薄暗い部屋の中には、死人のような顔をした二人の男がいた。
「……ど、どういうことだ、ラングナー。ゼムリャの軍は、辺境のヴォルフスブルクだけを迅速に制圧して、すぐに帰る手はずだったはずだ……!」
バルテルス侯爵は、ガチガチと歯の根を鳴らしながら頭を抱えていた。
「なぜ、王都にまで侵攻の噂が広まっている!? 奴ら、周辺の村や街道まで焼き払って進軍しているとでもいうのか!?」
「……ええ。おそらく、意図的に大立ち回りを演じているのでしょう。我々が渡した『あの許可証』を盾にして」
ラングナー子爵は、もはや取り繕う余裕もなく、自暴自棄な冷笑を浮かべた。
「閣下。今更ながら、我々は取り返しのつかないことをしたのですよ。イゴール大使は最初から、辺境の技術だけが目当てではなかった。彼らは『治安維持の要請』という合法的な大義名分を利用して、我が国の東部一帯、いや、うまくいけば王都までを『保護』という名目で占領する腹積もりだったのです」
「ば、馬鹿な! 私はそんなことは頼んでいない! 奴ら、私を騙したのか!」
「騙される方が愚かなのですよ。国を売る人間に、約束を守る価値などあるはずがない」
ラングナーの突き放すような言葉に、侯爵は息を呑んだ。
そして、じわじわと己の首に巻き付く「完全な詰み」のロジックに気づき、顔面を蒼白にさせた。
「……待て。もしゼムリャがこのまま我が国を蹂躙し、実質的な支配者になったとしたら……我々はどうなる?」
「決まっています。真っ先に『口封じ』のために消されますよ。他国の軍を引き入れるような裏切り者を、新しい支配者が信用して生かしておくはずがない」
ラングナーは乾いた声で笑った。
「では、逆にゼムリャ軍が敗退したら?……あり得ないことですが、仮にあの忌々しい辺境の二人組が奇跡を起こして隣国を退けたとしましょう。その場合、ゼムリャ側は敗戦の責任を逃れるため、間違いなく『我々はバルテルス侯爵の要請で軍を動かしただけだ』とあの署名入りの書類を王国に提出します。そうなれば、我々は外患誘致の国家反逆罪で、一族郎党すべてギロチン送りです」
隣国が勝とうが、負けようが。
自分たちが己の保身のためにサインしたあの一枚の書類が存在する限り、どちらに転んでも、自分たちに生き残る道は完全に絶たれていたのだ。
「あ、ああ……あああ……!」
侯爵は喉の奥からヒューヒューと奇妙な音を漏らし、床に崩れ落ちた。
金と権力ですべてを支配してきた男が、自らの無知と傲慢さによって掘った底なしの墓穴。その深さにようやく気づいた時には、すべてが手遅れだった。
「逃げよう……ラングナー、今すぐ馬車を出せ! 財産は持てるだけ持って、海を渡って西の国へ——」
ドンッ!!
侯爵が這いつくばって叫んだ瞬間、執務室の頑丈なオーク材の扉が、爆発したかのような轟音と共に吹き飛ばされた。
「ひっ!?」
「な、なんだ!?」
粉塵が舞う中、ずかずかと足音を荒立てて踏み込んできたのは、全身を銀色の重甲冑で包んだ屈強な男たち——王国の最高武力である『近衛騎士団』の精鋭部隊であった。
抜刀された白刃が、侯爵とラングナーの喉元にピタリと突きつけられる。
「抵抗は無意味だ、バルテルス侯爵。並びにラングナー子爵」
近衛騎士たちを掻き分けて歩み出てきたのは、王国の最高権力者であるオズワルド丞相だった。その顔には、かつてないほどの激しい怒りと、軽蔑の色が浮かんでいた。
「じょ、丞相閣下! これは一体何の真似——」
「黙れ、売国奴」
丞相の絶対零度の声が、侯爵の言葉を切り裂いた。
「先ほど、東の国境守備隊から報告が入った。隣国ゼムリャの軍勢が、貴様の署名が入った『武力行使許可証』なるものを掲げて進軍してきたとな。……我が国を他国に売り渡すとは、どこまで底辺に落ちれば気が済むのだ、貴様らは」
「ち、違う! 私は国のために……辺境の反逆者を討つために仕方なく!」
「貴様自身の保身のためだろう! 貴様のその浅はかな決断が、今この瞬間、王都の民をどれほどの恐怖に陥れているか、その耳で聞いてみろ!」
丞相が一喝すると、窓の外から響く民衆の悲鳴と怒号が、より一層大きく聞こえた気がした。
「もはや貴様らに弁明の機会はない。国家反逆罪ならびに外患誘致の容疑で、両名を直ちに捕縛し、地下牢の最下層へ叩き込め。身柄の引き渡し要求があっても、決して応じるな」
「はっ!!」
近衛騎士たちが荒々しく侯爵と子爵を縛り上げ、床に引きずり倒した。
「や、やめろ! 私は財務卿だぞ! 私がいなければこの国の経済は回らない! 離せ! 離せェェェッ!」
侯爵の惨めな絶叫が屋敷に響き渡る。
しかし、彼がどれだけ喚こうと、すでに王国の経済は彼の手を離れ、彼が「反逆者」と呼んだ辺境の二人組によって完全に支配されていた。
「……終わったな」
冷たく言い放つ丞相の前で、かつて王都で絶大な権力を誇った財務派閥は、誰一人味方がいない孤独と絶望の中、最も惨めな形で完全に崩壊したのであった。




