第57話:住之江の残光、自己崩壊のプレリュード
1994年12月17日。賞金王決定戦トライアル最終日。
乾健児は2戦2勝。しかし、ピットで翼がスキャンしたハルのバイタルデータは、赤色の警告灯で埋め尽くされていた。昨日の「零号」との接触により、ハルのAI深層部に議会のウィルス――**『自己崩壊プログラム:エントロピー』**が侵入していたのだ。
「……健児、もう無理よ。ハルの肉体が、マブイの熱とウィルスに耐えきれず、分子レベルで分解を始めてる」
翼の手が震える。ハルの人工皮膚の隙間から、琥珀色の光が霧のように漏れ出し、機体全体を濡らしていた。
「……おじさん。……僕、平気だよ。……ただ、少しだけ『眠い』んだ。でも、優勝戦の海を、おじさんと一緒に見たい」
ハルは消え入りそうな声で、乾の厚い手のひらを握り返した。
運命の第12レース。対戦相手には、再び零号、そして議会の執行官たちが乾を包囲するように並ぶ。
彼らの狙いは、勝敗ではない。乾の精神的支柱であるハルの「完全消去」だ。
零号が放つ、属性変質――『忘却の波』。
それは、ハルの記憶データ、乾と共に歩んだ「大宮」「江戸川」「宮島」の全ての感情を、物理的なノイズで上書きし、ハルをただの「空っぽの器」へと戻す残酷な一撃。
「全艇、起動!!」
スタート。乾はハルを守るため、自らの銀河マブイを逆流させ、ハルのコアを直接包み込んだ。
しかし、零号のノイズがハルの回路を焼き、ハルの瞳から光が失われていく。
「……おじ……さん……? ……だれ……? ……ここは……どこ……?」
ハルの言葉が途切れる。機体の制御が失われ、住之江の第1マーク、乾の『泥龍』は制御不能なスピンに陥りかけた。
「……ハル! 忘れんな! 俺だ! 泥水の底で、お前と出会った……乾健児だ!!」
乾は、自らの脳内に直接、ハルとの全ての記憶を叩き込んだ。
大宮の泥臭い特訓、江戸川の激流、宮島の神々しい光。
新境地――『銀河・記憶の楔』!!
乾の叫びに呼応し、ハルの消えかけていたコアが、凄まじい熱量で再点火した。
「……思い……出した……。……おじさんは……僕の……『世界』だ!!」
ハルの感情が爆発し、機体全体が超高熱のプラズマを噴射。零号の『忘却』を焼き尽くし、乾はスピンの慣性を利用した超高速の「神速旋回」で、骸と零号をまとめて抜き去った。
1着、乾健児。
トライアル3戦全勝。文句なしの1号艇で、優勝戦進出を決めた。
ピットに戻り、機体から降りたハルは、そのまま乾の腕の中に倒れ込んだ。
彼の肉体は熱を持ち、もはや自力で立つことすら叶わない。
「……おじさん。……明日の優勝戦……僕が壊れても……笑って……走ってね」
「……バカ野郎。お前がいない優勝戦なんて、ただの『水遊び』だ。……ハル、明日、一緒に1億掴んで、お前の体を……世界で一番『本物』にしてやるぜ」
その夜、住之江の夜空に、一筋の不気味な赤い流星が流れた。
優勝戦のピットに現れるのは、議会トップ――乾と全く同じ顔を持つ、「未来を捨てた乾健児」。
1994年12月18日。
賞金王決定戦、優勝戦。
乾健児、ハル、そして黒崎翼。彼らの「からくり」を越えた物語は、ついにその終着点へ。




