第30話:平和島の咆哮、SG(スペシャルグレード)の深淵
第30話:平和島の咆哮、SGの深淵
1993年、冬。東京都、平和島競艇場。
G2甲子園を制した乾健児、ハル、翼の三人は、ついに競艇界の最高峰、**SG「全日本選手権」**のピットに立っていた。
ここは「東のメッカ」と呼ばれ、高層ビル群に囲まれた狭い水面は、独特の風の渦と、反響する爆音でレーサーの精神を削り取る。
「……おじさん、ここ、空気が違うよ」
ハルが周囲を見渡す。ピットに並ぶ52名のレーサー。その全員が、乾がこれまで戦ってきた各都道府県の王者クラスを超越した、**「人外の怪物」**たちだった。
漂うマブイの総量は、もはや気圧を変えるほどに濃密で、平和島の水面は何もしていないのに細かく震え続けている。
今大会の絶対本命は、ダービー3連覇を狙う「生ける伝説」、不動 凱。
彼の属性は、もはや五行の枠を超えた**『万物』。
マブイ出力は、驚愕の35,000**。彼が機艇に乗り込むだけで、周囲の他艇のマブイが「臣服」し、出力が自動的に20%低下する。
「お前が泥水の新人か。甲子園の優勝旗、重かったろう? ……だが、ここにあるのは旗ではない。命のやり取りだ」
不動の瞳には、一切の慈悲がない。乾が多摩川で見せた「零」の領域さえも、不動にとっては「子供の火遊び」に過ぎないというのか。
「平和島SG・ドリーム戦……全艇、起動!!」
号笛とともに、6隻の機艇が水面へ飛び出した。
乾は**属性:『真珠白金』**を解放し、スリットラインへ突っ込む。だが、その瞬間。
「……っ、機体が……動かねえ!?」
不動の1号艇が放つ属性変質――『万物の静止』。
平和島の水面、風、そして他艇のマブイまでもが、不動の意志によって「支配」された。乾の17,000(上限突破後も変動)の熱量が、不動の放つ圧倒的な「世界の理」の前に、文字通りかき消されていく。
不動の機艇は、まるで時間が止まった世界を一人だけ動いているかのように、優雅に、かつ暴力的な速さで第1マークを旋回した。
結果は、乾の6着惨敗。
SGの舞台。そこは「強さ」の次元が違った。
ピットに戻った乾は、拳をコンクリートに叩きつけた。
「……あんなの、どうやって勝てってんだ。マブイが……触れることさえできねえ」
右腕の紋様が、恐怖で細かく震えている。
「健児、顔を上げなさい」
翼が、乾の頬を両手で包み込んだ。
「パパを倒し、甲子園を獲ったあんたが、ここで終わるはずない。……不動が『万物』なら、あんたは『泥水』でしょ? 何にでもなれて、何を汚しても、最後にはすべてを飲み込む泥水よ」
「……おじさん。僕の計算じゃ、不動さんは『完璧』すぎる」
ハルが、乾の機艇のプロペラを指差した。
「完璧なものは、想定外の『ノイズ』に弱い。おじさんの泥臭いマブイ……それをSGの理屈に合わせるんじゃなくて、SGを泥水に沈めるんだ」
乾は、平和島の冷たい空気を深く吸い込んだ。
肺の奥で、かつての「蒸気肺」の痛みが微かに疼く。それは、自分がまだ人間であり、這い上がってきた泥の味を覚えている証だった。
「……ああ、そうだな。俺は王様じゃねえ。……泥沼の底から、王の足を引っ張り抜く『悪魔』だ」
乾の瞳から、迷いが消えた。
真珠白金の輝きが、ドロドロとした暗銀色に変質し始める。
SGダービー。まだ初日は終わったばかりだ。
泥水の王が、世界の理(不動)を壊すための、最も汚く、最も輝かしい反撃が今、始まろうとしていた。




