第29話:甲子園の頂、白銀(しろがね)の頂
第29話:甲子園の頂、白銀の頂
1993年、晩秋。尼崎競艇場。
G2「ボートレース甲子園」優勝戦。カクテル光線に照らされたセンタープールは、昨日までの嵐が嘘のように、鏡のような静寂を取り戻していた。
1号艇、乾健児。
彼が操る『銀鱗・泥龍』は、水神の試練を経て、装甲が**『真珠白金』**へと変異。もはや機械というより、一柱の神獣のような神々しさを放っていた。
「……おじさん、準備はいい? リミッターは、もう僕の計算じゃ制御できないところまで来ているよ」
2号艇のハルが、静かに告げる。ハルの瞳には、おタキさんから託された「マブイの欠片」が宿り、その演算は物理を超えた「運命」の領域にまで届こうとしていた。
対峙するは、最強の福岡代表、A1級の絶対王者・皇 ダイゴ(すめらぎ だいご)。
彼の属性は、金の最上位変質――『覇道』。
「神の領域」に最も近いと言われる彼のマブイ出力は、驚愕の25,000。
「乾健児。泥水の底から這い上がったその執念、褒めて遣わそう。だが、ここは聖地だ。選ばれし者のみが立つべき場所。……貴様の17,000(端数)では、私の足元すら見えぬぞ」
皇の機艇から放たれる黄金のマブイが、尼崎の水面を強制的に「黄金の道」へと変えていく。周囲の艇は、その輝きに眼を焼かれ、戦う前に戦意を喪失するほどの威圧感だった。
「尼崎G2・甲子園優勝戦……全艇、起動!!」
スタートの号笛。皇の25,000が炸裂した。
属性変質――『絶対王政』。
スリットラインを越えた瞬間、皇の周囲の空間が歪み、他艇の時間は遅滞し、皇だけが光の速さで1マークへと到達する。
「……っ、動けねえ! 空間そのものが……重てえ!!」
乾は、真珠白金のオーラを全開にするが、皇の圧倒的な出力の前に、17,000の封印が悲鳴を上げた。
「おじさん、今だよ! 17,000を、捨てて!!」
ハルが、自らの機体を乾に接触させた。衝撃ではなく、ハルの持つ「感情のマブイ」を乾の右腕へ流し込むための「接吻」だ。
「……ああ、分かった。17,000は限界じゃねえ。……俺を守るための『殻』だったんだな」
乾の右腕から、不純物の一切ない、透明な**「無」**の光が溢れ出した。
17,000……20,000……測定不能。
出力が上がっているのではない。乾自身が「水」となり、「風」となり、尼崎そのものへと溶けていく。
属性:神格変質――『白銀・零式の世界』。
皇の「覇道」が作った黄金の道が、乾が通る瞬間に真っ白な「無」へと塗り替えられていく。
第1マーク。皇の全速旋回。そのさらに内側、水面と1ミリの隙間もない「零」の航跡を、乾の機艇が音もなく滑り抜けた。
「何だと……!? 私の覇道を……『無』にしたというのか!?」
「皇、あんたの道は立派すぎて、誰もついてこれねえ。……俺の道は、泥水にまみれた全員が通れる道だ!!」
乾の『泥龍』が、真珠色の飛沫を上げて皇を抜き去る。それはもはや競艇ではなく、魂の昇華だった。
ゴールライン。
1位、乾健児。
2位、ハル。3位、黒崎翼。
尼崎の夜空に、優勝を祝う花火が上がる。……いや、それは花火ではなかった。
乾の放った白銀のマブイが、上空の湿気と反応し、真夏の尼崎に「白銀の雪」を降らせていたのだ。
ピットに戻った乾を待っていたのは、割れんばかりの拍手と、武蔵や音無、そして敗れた皇の清々しい笑顔だった。
「……乾、見事だ。……泥の中から、これほど美しい光を見せられるとはな」
皇が、乾に右手を差し出す。乾は、その手を力強く握り返した。
「ハル、翼。……やったぜ」
「うん。……おじさん、僕、今、すごく幸せっていう感覚が分かるよ」
ハルの目には、もう機械的な冷たさはなかった。
乾健児、ボートレース甲子園、完全制覇。
ホームレスから始まり、泥水を啜り、死を乗り越えて掴んだ「日本一」の称号。
だが、彼の視線はすでに、その先……全レーサーが憧れ、恐れる最高峰の戦場、**SG**へと向いていた。




