第28話:水神の咆哮、尼崎の深淵
尼崎G2・ボートレース甲子園、準優勝戦。
「センタープール」と呼ばれる尼崎の静寂は、突如として破られた。秋の台風が接近し、気圧の急降下と共に、尼崎の底に溜まっていた数十年分、いや数百年分の「敗者たちの執念」が、淡水の底から噴き上がったのだ。
水面は不気味な緑色に変色し、高さ1メートルを超える不規則な「三角波」が立ち上がる。それは物理的な風の影響ではなく、尼崎の地霊――**「水神のマブイ」**の暴走だった。
「……おじさん、これ、レースができる状態じゃないよ」
ハルの瞳に映る水面は、幾重にも重なるマブイの渦。
「水神が怒ってる。僕たちがここで『白金』や『鉄鋼』をぶつけ合いすぎたせいで、水面が限界を超えちゃったんだ」
第11レース。準優勝戦の最注目カード。
乾健児の前に立ちはだかるのは、今大会のダークホースであり、地元・尼崎の古い神職の家系に生まれたレーサー、神代 結。
彼女の属性は**「水の変質――『神鳴』」**。
機艇を操るのではなく、水面に語りかけ、波を自らの手足のように操る巫女の旋回だ。
「乾さん。あなたの白金は眩しすぎるわ。この尼崎の底で、清らかな水の洗礼を受けてもらうわよ」
神代が祈るようにハンドルを握ると、彼女の周囲だけ波が静まり、代わりに乾のコースに巨大な水の壁が立ち塞がった。
「尼崎G2・準優勝戦……全艇、起動!!」
スタートの号笛。乾は「真・白金」を全開にするが、水面が生き物のように盛り上がり、プロペラが空を切る。
一方、神代の機艇は、波の頂点を飛び跳ねるように加速し、あっという間に乾を置き去りにした。
属性変質――『水神の逆鱗』。
乾の目の前で、水面が巨大な口を開けた。激しい「引き波」が逆流し、乾の『銀鱗・泥龍』を尼崎の底へと引きずり込もうとする。
「……っ、吸い込まれる! 17,000の出力が、水の重さに勝てねえ!」
「おじさん! 力を入れちゃダメだ! 昨日の『流体』を思い出して!」
ハルが叫ぶが、水神の力は「鉄鋼」よりも遥かに重く、深い。
乾の機艇が、ついに巨大な渦に飲み込まれ、カウルが半分沈没した。
冷たい尼崎の水が乾の肺を直撃する。「蒸気肺」の熱を奪うのではなく、水の冷気が乾の心臓を直接凍らせようとする。
(……ああ、そうか。俺は勝とうとしてた。水に、勝とうとしてたんだ)
意識が遠のく中、乾は水底で、かつてのホームレス時代の感覚を思い出した。
雨を避け、橋の下で泥水にまみれて生きていたあの頃。水は敵ではなく、ただそこにあり、自分を包み込んでいた。
乾は右腕の力を完全に抜いた。
白金の熱を、攻撃的な「針」から、水を温める「陽光」へと変質させた。
新覚醒――『白金・水神抱擁』。
乾のマブイが尼崎の水面と共鳴した。
渦は消え、代わりに乾の機艇を押し上げる「優しい手のひら」のような上昇気流が発生した。水神は乾を拒絶するのをやめ、その「覚悟」を受け入れたのだ。
第2マーク。乾は神代の作る巨大な波を、切り裂くのではなく、その波の「背中」を滑るようにして抜き去った。
ゴールライン。
1位、乾。2位、神代。3位、ハル。
嵐のような水面が、乾がゴールした瞬間に嘘のように静まり返った。
ピットに戻った神代は、ヘルメットを脱ぎ、乾に向かって深く頭を下げた。
「……負けました。水神様が、あなたを『主』として認めた。その白金……もう、ただの金属ではありませんね」
乾は自分の右腕を見た。
白金の紋様は、まるで水面に広がる波紋のような、優しくも力強い青みを帯びた白へと進化していた。
属性変質:白金 → 『真珠白金』。
乾健児、ついに「甲子園」決勝戦へ。
尼崎の深淵を越えた男の前に、ついに全国最強の壁が立ちふさがる。




