番外編 祝福の使者③
王宮とは異なり、兵営内に豪奢な謁見室は存在しない。ほぼ会議室に近い広間を仮の謁見室として用意し、そこで使節と対面する手筈になっていた。
本来ならば総司令たるレックスが椅子に座って待ち構え、謁見者が後から入室してくるのが筋である。
だが、何かと支度が後手に回った挙げ句、使節が先に謁見室で待っているという珍妙な事態になってしまった。
「着替えとはずいぶん時間がかかるものだな」
華やかな正装に身を包んだ婚約者への、レックスの第一声がこれだった。
「仕方ないでしょう! 初めて着るんだから!」
本来なら複数の手慣れた侍女が着替えをさせるところを、侍女経験のないミリア一人で手伝っているのである。通常よりも時間がかかるのは当然であった。
この時、レックスとしては思ったことをそのまま口にしただけだった。特に嫌味で言ったわけではないが、アウレリアの印象は最悪である。
本番前にこれ以上険悪になられても困る。トゥレンは苦痛に顔を歪めながら二人を急かした。
「これ以上、使節を待たせるわけにはまいりません。どうぞお早くお願いします」
そう促されると、レックスは無言で頷き、足早に仮謁見室へと向かっていった。
「え、ま、待ってよ!」
アウレリアが呼びかけたところで振り返りもしない。不満げに唇を噛みしめながら、アウレリアは裾を両手で持ち上げて大股で駆け出した。
とても清楚とは程遠いその有様に、トゥレンは目頭を手で押さえて天を仰いだ。
アウレリアにしてみれば、別に好んで隣を歩きたいわけではない。だが、以前の「嫁姑対面」の時に、仮にも婚約者ならば二人揃っていなければならないと言われたことを彼女は忠実に守ろうとしたのである。
「レックス! ちょっと待ちなさいよ!」
屋内だというのに、アウレリアは息を切らせて通路をせわしく駆ける。そして、いつもより重い衣装の裾が膝下にまとわりつき、彼女は足をもつれさせた。
「わわっ!」
慣れない盛装のせいで、聖女が派手に転倒する――もはや外交どころの話ではない。慌てて手をつこうとしても、裾をたくし上げていたせいで、それも間に合わない。
このままでは転ぶと、アウレリアが思わず目をつぶった次の瞬間。
「……え?」
彼女の体は痛みどころか、足裏にかかる重みすらも感じられなかった。
まるで宙に浮いているかのような――
「な、何してるのよ!?」
「転ばれたら面倒だからな」
レックスは言った通り面倒そうな表情を浮かべてそう告げた。
彼はアウレリアが転倒しかけた瞬間、彼女の腰を片手で持ち上げ、荷物を運搬するように小脇に抱えていたのである。
「そ、それはどうも……って、もう大丈夫だから下ろしてよ!」
宙に浮いた両足をバタバタさせながら、アウレリアは訴えた。本来なら助けてもらった礼を言うべきだろうが、とてもそれどころではない。いくら何でも片手に抱えられて持ち運ばれるなど、平常心でいられるはずもない。
「この方が早い」
レックスは眉間に深い皺を刻んだまま、人一人抱えて速度を緩めずに通路を進む。
アウレリアの小さな体など、彼にとっては剣よりも軽い。重い衣装でもたもたと後ろからついてこられるより、自分で運んでしまった方が効率的だと彼は判断したのである。
「そういうことじゃないでしょ!」
アウレリアの叫びは通路に空しく響き渡った。
その使節は、じりじりと時を待っていた。
彼は北西のモラヴ王国から遠路はるばるやってきた。
この数百年の間、東西セルディアの周辺国はほとんどが平定され、吸収されていった。その最後がモラヴの南方に隣接するラディア王国だった。旧領は完全にヴァルクレウスに併呑され、王侯貴族は財産のほとんどを取り上げられた。
モラヴが生き残ったのは、ひとえに矜持を捨て、低姿勢でひたすら恭順を示し貢納を続けてきたからである。そして、そこまで魅力ある国土も資源もなかったことが、かえって延命に繋がっていた。
それでも、いつ大国の機嫌を損ねて滅ぼされるかわかったものではない。ヴァルクレウスはつい先日、三百年の友好を破ってまで、兄弟国の西セルディアを滅ぼしたばかりなのだから。
すなわち、この第一王子アレクシス婚約の祝賀は、モラヴ使節にとって重大な使命であった。万が一にも後継者たる王子の機嫌を損ねでもしたら、今度は自国が消えてなくなるかもしれないのだから――
重い扉が力強く開かれ、仮謁見室にこのたびの主役が入室した。
使節は深々と頭を垂れたまま、密かに目だけでその姿を見やり――驚愕のあまり、思わず頭を上げてしまった。
「…………はっ!?」
無礼であることすら忘れて、彼の口からはおかしな声が漏れ出てしまう。
儀礼用の黒い軍装姿の巨体の男――これがアレクシス王子に違いない。鋼のような灰色の髪と瞳は、まさに噂通りだった。
そして、その隣には白絹の衣装に身を包んだ黄金の少女。これが婚約者たる聖女アウレリアなのだろう。
そのはずが。
—―なぜ、小脇に抱えられている?
ありえない光景に、使節は己の目を疑った。
儀礼の場でなくとも、日常的に人間を荷物のように運搬する姿は見たことがない。――まして王族が。
そして、さらにありえないことに、外交使節の前でこの婚約者たちは言い合いを始めたのである。
「だから自分で歩けるって言ったでしょう!」
「さっき転びそうになっていただろう」
「それはあなたがさっさと行っちゃうから!」
灰色の王子は冷酷無比などと聞いていたが、その彼に物怖じせず文句をぶつける少女こそが、まさに伝説の聖女なのだろう。
—―なんと見事な。
礼儀という点では失態も甚だしいはずの対面だったが、その異様さがかえってこの使節の心を打った。
「アレクシス殿下! こたびのご婚約、まことにおめでとうございます! 実に仲睦まじいご様子、大変感服いたしました!」
本来ならば王族が先に声をかけるはずが、彼もまた異様な状況に飲まれ、思わずそう叫んでいた。
攻め滅ぼした国の王子と滅ぼされた国の聖女。愛どころか血にまみれた政略結婚だろうと思っていた彼は、実に微笑ましい二人の様子に感服してしまったのである。
「……え?」
何が何だかわからぬうちに運ばれ、祝われ、困惑しきったアウレリアを置き去りにしたまま、こうしてモラヴ使節との対面は無事終了した。




