幕間 神の記憶 (前編)
今から十六年前、セリオは近衛兵団に入団したばかりの新米兵士だった。
武人の家系の長男で腕も立ち、成人後すぐ、将来の出世が約束された近衛兵団に配属されていた。
その彼の最初の任務は、異国から嫁いでくる花嫁の護送であった。
「姫様、お体の具合は大丈夫でしょうか?」
並走する馬上から馬車の中に向けて、護送隊長は気づかわしげな声をかけていた。
セリオより十歳近く年上のヴァノは、近衛兵団でも一、二を争う剣の使い手で、その腕を見込まれて花嫁護送隊の隊長に抜擢されたのだった。
「ええ、大丈夫です。心配してくださってありがとうございます」
「とんでもございません! 我々の職務ですから。何かご不便がありましたら何なりとお申し付けください」
花嫁の丁重な感謝の言葉に、ヴァノは意気揚々と胸を叩いた。
馬車の窓には帳が下ろされ、車内の様子は外からは見えない。しかも花嫁は薄紗のヴェールを頭からかぶっているため、乗降の際にも顔ははっきりとは見えなかった。
だが、その薄紗越しでも、見事な白金の髪と陶器のような白い肌は見て取れた。
異国の花嫁の名はベルダ。
亡国から貢ぎ物として献上される途上の、十七歳の少女であった。
この時、ヴァルクレウス王室の主立った女性王族は、アレクシス王子の母である王妃しかいなかった。その王妃も長年病床に臥せっており、公式の場に姿を見せることはない。
それゆえ、せっかく近衛兵になっても、今一つ張り合いと華やかさに欠ける日々を過ごしていたヴァノにとって、うら若き花嫁を守る任務は、まさに降って湧いた僥倖だったのである。
そして、任務中の隊長の浮かれ具合は、新兵のセリオにすらはっきりと看破されていた。
国境近くの峠道に入る前に、一行はひとまず足を止め、しばしの休憩を取ることにした。
「ここから先は道が悪くなりますので、お辛いでしょうがどうかご容赦ください」
ヴァノはベルダのそばにぴったりと貼りつき、腰掛けを用意したり日除けを立てたりと、甲斐甲斐しく世話をしていた。本来ならばこのような雑事は新兵の仕事なのだが、ヴァノはセリオの用意した果実水を引ったくると恭しくベルダに差し出していた。
「私のような者をこんなに気遣ってくださって……本当に感謝しています、ヴァノ隊長」
ベルダは王族に連なる身だというのに、近衛兵のヴァノに深々と頭を下げた。その際、薄紗のヴェールが揺れて、淡い琥珀色の瞳がかすかに覗く。
「いえいえ、当然のことをしているだけです!」
一瞬だけ目が合って、ヴァノはどぎまぎしながらも忠義者らしく振る舞おうとしていた。だが、ベルダはしおらしく首を振る。
「私は所詮、敗戦国の女ですから……供の一人もおりませんし、あなたがいてくれて本当に良かった」
「姫様……!」
はかなげな花嫁に、ヴァノは感涙をこぼしそうな勢いだった。
実際、ベルダは異国から嫁ぐ際に侍女の一人も連れていない。亡国からの献上品だからというだけではない。もともと彼女は故国でも貧しい下級貴族の娘に過ぎなかったのだ。
ただ、セルディアの伝説の聖女に近い容姿を持つというそれだけの理由で選ばれ、十七にして敵国にたった一人で送り出されたのである。
その背景をヴァノたち護送隊の面々はすでに知らされている。だからこそ、隊長がやけに肩入れして気遣うのも仕方のないことと、部下たちも見過ごしていたのだった。
休憩後、ベルダは汗をかいたので水浴びをしたいと申し出た。
すでに季節は夏に差しかかっている。窓も帳も閉めきった馬車の中では、蒸し暑くて汗だくになるのも無理はない。
乗っているのが貴人だとわかれば盗賊に狙われかねないため、馬車は質素で小さめのものが選ばれている。その密室の中に長時間閉じ込められていては、水くらい浴びたくなるのも当然ではあった。
峠道から外れた人気のない泉を見つけたのはセリオだった。ヴァノはベルダをそこへ案内し、セリオとともに離れたところで警護を務めた。
泉に誰かが近づかぬよう警備しながら、セリオは居心地の悪さを感じていた。
ヴァノ隊長は近衛兵団でもとりわけ腕が立ち、生真面目で高潔な騎士のはずだった。
それなのに、今は花嫁の水浴が終わるまでそわそわと落ち着きがなく、泉の方を振り返ろうとして慌てて向き直るという怪しい挙動を繰り返している。幻滅以前に、その異様さがセリオに不穏な空気を感じさせていたのであった。
すると不意に、泉の方から短い悲鳴が聞こえてきた。
非常事態となれば距離を取っている場合ではない。ヴァノとセリオの二人はただちに泉へ向かう。
そして、彼らはそこで見た。
幾層にも瞬く木漏れ日の中、一糸まとわぬ滑らかな肢体。濡れた柔肌に浮かぶ水滴が、光を受けて淡く輝く。その姿は、これまで見たどの教会壁画よりも神々しく感じられた。
声を出すことすらできず、二人はただ立ち尽くしていた。
それでもすぐに自失から立ち直ったのは、セリオの方だった。
ベルダは裸体のまま泉の岸辺で怯えたように横たわっていた。セリオは気を引き締め、まずは声をかけた。
「いかがなさいましたか?」
「ああ、すみません……何者かが急に近づいてきたようだったので……」
ベルダの指差した方向に目を向けると、木陰の奥に動く影が見えた。その正体を察し、セリオは生真面目に告げる。
「あれは恐らく鹿ですね。危険はありませんのでご心配な――」
「その通りです、姫様! 我々がついている以上、何も恐ろしいことなどございません!」
セリオが言い終わる前に、ヴァノは部下を押しのけてベルダとの間に割って入った。
頬は紅潮し、その眼は異様なほど輝いている。
「ありがとうございます……私、恐ろしくてつい……」
ベルダはかすかに涙を浮かべながら、岸辺に置かれた白布を体に巻き始めた。
剝き出しの裸体が隠され、セリオは安堵したが、ヴァノの方はまだ熱が冷めていないようだった。
「姫様のことは何があっても私がお守りいたします!」
ヴァノは力強く忠義を叫ぶ。その眼はまっすぐベルダに向けられ、もはや泉も、木々も、部下の存在すらも目に入っていなかった。
「ヴァノ隊長……あなただけが頼りです……」
ベルダはそうつぶやくと、そっとヴァノの手を握りしめた。その時、彼は初めて真正面から花嫁の顔を直視した。
濡れた白金の髪の下、陶器のごとく白い肌。その顔立ちは生きた彫像のごとく整い、不安げに揺れる淡い琥珀色の瞳だけが生身の人間であることを示していた。
――神の化身。
ヴァノがそう感じるのも無理はなかった。それはまるで、黄金の髪と瞳を持つという伝説の聖女を彷彿とさせる姿だったのだから。
聖女のごとき花嫁に信頼され、ヴァノの忠誠心は爆発的に高まった。
その様を後ろから見つめる部下の視線が、泉の水より冷たいとも知らず。
無事に王都にたどり着いた花嫁は、翌年には娘を産み、正妃となった。
護送隊長を務めたヴァノは国王夫妻の親衛隊長に抜擢され、二十六歳にして華々しい昇進を遂げた。
その一方、セリオは近衛兵団に異動願いを届け出ていた。
「近衛を捨てて戦地へ行きたいとは、ずいぶん酔狂な奴だな」
セリオの届出を受理した上司は、彼の希望に首をひねった。
「父君は反対しなかったのか?」
「いえ、その件は……問題ございません」
実際には問題しかなかったが、セリオは余計なことを口にはしなかった。
代々近衛を務める武人の家系で、しかも嫡男の彼が突然近衛を辞めるなどと言い出した時、父は激怒した。無理もない話ではある。セリオはまともに理由を話さなかったのだから。
(――話したところで理解されまい)
それがわかっていたからこそ、彼は父にも上司にもろくに理由を告げず、勘当同然で近衛兵団と実家を飛び出したのである。
――あれは、魔性の類だ。
それがセリオを衝動に走らせた恐怖の根源だった。
王妃ベルダ。
この世のものとは思えぬほどの美貌に、光のごとき神々しさ。あまり敬虔な信徒ではないセリオですら思わず神性を感じてしまうほど、あの姿は異様だった。
だが、度を越した美は毒になる。
事実、生真面目な騎士だったはずのヴァノが、瞬時に別人へと変貌した。今はただベルダの言葉にだけ反応する傀儡と化している。
このまま近衛にいれば、己も毒に染まってしまうかもしれない。その恐怖が彼を突き動かし、将来の昇進も安泰な生活も捨てて、逃げ出したのである。
こちらは第九章に繋がる回想編となります。
後編は明日9/19(土)に更新いたします。




