第九章 神の変容⑩
その日、アウレリアは兵営内の執務室に呼び出され、トゥレンから質問を受けていた。
「え? ヘリオスのこと? うーん……私もあんな子だと思ってなかったから、本当の顔なんてわからないよ」
トゥレンが尋ねたのは、セラーナ王宮時代のヘリオスについてであった。
彼らにしてみれば、ヘリオスの情報源は公的な資料か、先日の戦勝報告における煽り対面ぐらいしかない。同じ王宮で育ったアウレリアから聞き出そうとするのは当然のことである。
だが、訊かれたところでアウレリアには答えようがない。離宮で隔離されて育ってきた彼女は、ヘリオスと会ったのも年に数回程度。しかもその頃はただの可愛い弟程度にしか見ていなかったのだから、渡せるような情報など何も持ち合わせていなかった。
「神の瞳では見えなかったのですか?」
トゥレンはなおも食い下がる。しかし、アウレリアは力なく首を振るしかできなかった。
「うん……今まで嘘ついてる感じは全然なかったんだよね」
アウレリアの瞳は嘘そのものを見るわけではない。相手が騙したり誤魔化したりしようとする際に揺れる瞳の動き、頬の引き攣り、体の強張りなど、小さな違和感を見抜くだけなのだ。
だからこそ、本人に悪意のないヘリオスの挙動は普段通りすぎて、彼女には見抜くことなどできなかった。
結果、必要な情報が全く得られないトゥレンは苛立ちをこらえながら、彼女の後ろに控える護衛にも質問範囲を広げた。
「ユリウス。あなたはどうなんです? あなたも護衛騎士として対面したことくらいはあったのでは?」
「いえ、私は直接ヘリオス王子と話すようなことはありませんでしたので……」
まったく、西の人間の目は節穴か――とはさすがに言わず、トゥレンは溜息を吐き出すだけに抑えた。
そんな彼の様子をどこか他人事のように眺めながら、奥の椅子で政務をしていた主君が声をかけた。
「何だ、トゥレン。まだあの子供のことを気にしていたのか」
「私情で気にしているのではなく当然の対策ですが!?」
トゥレンの声は少なからず上ずっていた。神の瞳でなくても彼の動揺は明白だったが、アウレリアはそこには触れず、おずおずと尋ねた。
「ヘリオスは……そんなに危険なの?」
その問いに気を取り直したように居ずまいを正すと、トゥレンは冷えた声音できっぱりと言い放った。
「個人の資質以前の問題です。ヘリオス王子は西セルディアの血を継ぐ唯一の王子。ならば旗頭にして亡国を再興しようと考える輩は必ず出てきます」
「そうなんだ……」
冷たい事実に消沈したようにうなだれるアウレリアに、トゥレンはさらに釘を刺す。
「あなたも同じ立場だということをお忘れなく」
「え?」
「あなたも西セルディア再興のために担がれうる存在なのですよ。それともあなたご自身も国を取り戻したいとお考えなのですか?」
トゥレンの瞳がいっそう冷たさを増す。何か少しでも不穏な発言があれば、すぐにでも危険の芽を摘もうと構えているかのように。
だが、アウレリアにとっては疑われること自体が心外だった。
「そういうことじゃないわよ! だいたい私は政治とか国とかよくわからないし……国なんて言っても、ユリウスが連れ出してくれるまで、私は見たこともなかったんだから」
アウレリアの世界は十一年間、小さな離宮の中で完結していた。伝説の聖女、国の王女と崇められても、彼女はその臣民が暮らす国土すら見たことがない。そのような環境で育った彼女が、再興しようと思うほど国への帰属意識を持つはずもなかった。
「……でも、ヘリオスはどうなんだろう。あの子は国を取り戻したいと思ってるのかな」
アウレリアはふとつぶやいた。自分と違って初めから王族として生まれ育ったヘリオスは、もしかしたら国への愛着があるのかもしれない。そう思っての発言だったが、それはすぐさま切り捨てられた。
「どう思うかは関係ない。実際に何をするかだ」
レックスは書類の決裁の片手間に、彼女の言葉をそう断じる。相変わらず冷たいとアウレリアはふてくされて食ってかかった。
「だけどヘリオスはまだ子供だよ? 軍とかもないし、何ができるって言うの?」
アウレリアの反論に応じたのはトゥレンだった。
「皇后は十六年前、身一つでこの国に嫁いできました。本人は剣一つ振るえない、ただの非力な娘でした。それが今、王権と神権を一手に握っています。この意味がおわかりですか?」
アウレリアは答えない。
彼らが正しいと認めたくなくても、それを否定できるだけの知識も経験も彼女には不足していた。
黙り込む彼女に、トゥレンは彼の持つ結論を告げる。
「人を動かす力は、時に武力をも上回るのです」
「……ヘリオスには……それがあるって言うの?」
アウレリアの力のない問いに対し、あなたにもあるのだという言葉をトゥレンは飲み込んだ。
千年の歴史で初めて現れた伝説の聖女――その存在がどれだけ人を動かすと思っているのか。
己の価値に自覚のない聖女に溜息をつき、トゥレンはこれ以上の会話を打ち切ることにした。
「用心しておくに越したことはないということです。どうもお時間を取らせました。どうぞお帰りください」
「何よそれ!」
自分で呼び出しておいて、今度はさっさと追い返そうとするトゥレンのあまりな態度に、アウレリアは腹を立てた。だが、トゥレンは涼しい顔で抗議を聞き流す。
彼にとって聖女はかりそめの同盟者に過ぎない。主君の覇道の妨げになると判断すれば、いつでも切り捨てるつもりでいた。だからこそ、不必要な情報をわざわざ与えようとしなかったのである。
今回は毒物の塊である王子の情報収集のために呼び出したのだが、まったく参考にならなかったため、早いところ追い出そうとしたのだった。
だが、頬を膨らませて出ていこうとするアウレリアを、不意に部屋の主が呼び止めた。
「おまえはヘリオスに会いたいのか?」
突然のレックスの質問にアウレリアは戸惑った。
「え……? 何でそんな……」
質問の意図が読み取れず、言い淀む彼女にレックスはさらに追い討ちをかける。
「どうなんだ」
「じゃ、じゃあ、そう言ったら会わせてくれるの?」
圧の強い灰色の瞳を跳ね返すように、アウレリアは問い返す。
しかし、返ってきたのはろくでもない答えだった。
「いや、別に」
「だったら訊かないでよ! ユリウス、もう行こう!」
トゥレンには邪険にされ、レックスには意味不明な質問をされ、さんざんな目に遭わされたアウレリアは、ユリウスの腕を引っ張って足早に執務室を出て行った。
聖女が力任せに扉を閉めて出ていくのを横目で見送ると、トゥレンは主君に咎めるような視線を向けた。
「殿下、聖女とヘリオス王子の面会などさせられるはずがございませんよ」
レックスの質問はアウレリアを戸惑わせたが、実際にはその場のトゥレンも同じ程度には困惑していたのである。
今や皇后の客分となり、堂々と宣戦布告をしてきたあの王子を、現時点の同盟者である聖女と会わせられるわけがない。万が一にも聖女が幼い王子に肩入れして、寝返りでもしたら取り返しがつかないのだ。
それがわからぬ主君ではないはずだが、トゥレンは念のため諫めたのである。
「わかっている」
「でしたらなぜあのような……」
レックスの返答は相変わらず短い。判断力も反応も今までと変わりない。だからこそ、トゥレンは困惑を隠しきれなかった。
――ならば、なぜあんな意味のない質問をわざわざ投げかけた?
その答えは、ますますトゥレンの理解を超えていた。
「会いたそうにしていたから訊いただけだ」
まったく意味が繋がらない。トゥレンは表情を強張らせたまま、改めて諫言するよりなかった。
「殿下、あの王子にこれ以上関わるのはおやめください。あのような害獣は利用のしようもありませんし、排除以外の道はございませんよ」
トゥレンはそう釘を刺したが、その釘は主君から即座に刺し返されてしまった。
「やはりおまえはあの子供のことになるとずいぶん熱がこもるな」
「そのようなことはございません!」
かすかに笑いながら指摘され、トゥレンは語気を強めて否定した。
この時、彼の脳内におけるヘリオス処刑回数は、ついに一千回を超えていた。
アウレリアは唇を引き結んだまま回廊を進み、自室に戻ると大声で不満を吐き出した。
「本っ当に失礼な人たちなんだから! ユリウスもそう思うでしょ!?」
彼女はユリウスに同意を求めたが、従者の彼が同調するはずもなかった。
「アウレリア様、お疲れでしたら何かお飲み物でもお持ちしましょうか」
怒りの矛先をそらそうと、ユリウスはやや強引に話題を変える。その不器用な気遣いに、アウレリアは余計にふてくされた。
「もう、ユリウスも愚痴くらい言ってくれたっていいんだよ?」
そう言われたところでユリウスが主に愚痴をこぼすわけがない。
代わりに彼が漏らしたのは、薄く苦い笑みだけだった。
「アウレリア様は……ヘリオス王子にお会いになりたいのですか?」
先ほどのレックスと同じ問いをユリウスは口にした。
無論、彼の質問は興味本位などではなく主への気遣いによるものである。
それはアウレリアにもわかっていたが、たとえユリウス相手でも、その答えは簡単には出せなかった。
「わからないんだよ……この前会った時は、前とは別人みたいになってたけど……でも、あれが本当のあの子だったのかな。私が見抜けてなかっただけで……」
これまでずっとヘリオスに裏の顔があるなどと想像もできなかった。
見抜けなかったのは、疑いがなかったせいなのか。それとも、ただの見落としなのか。
神の瞳などと崇められても、この目はそばにいた者の真の姿すら暴くことができない。その事実がアウレリアの胸に重くのしかかっていた。
「……私、何にも見えてなかったんだね」
黄金の聖女は自嘲気味に笑う。その痛々しい微笑に、ユリウスは強く唇を噛みしめた。
「アウレリア様……」
それ以上、言葉が出ない。
彼には主を慰めることなどできなかった。その目を覆い、外の世界から閉ざしてきたのが己だと自覚しているからこそ。
身をこわばらせて立ち尽くすユリウスの様子に気づくと、アウレリアはすぐに表情をやわらげた。
「ごめんね、ユリウス。心配しなくて大丈夫だよ。あ、飲み物持ってきてくれる? 今日は葡萄が入ったのがいいな」
「すぐにご用意いたします」
アウレリアがあえて明るくそう告げると、ユリウスはただちに身を翻らせて厨房へと向かった。
その広い背中を見送りながら、彼女はそっとつぶやいた。
「私は、何も見えてないんだ……」
黄金の瞳に特別な力などない。ならばただの人として、もっと多くを見聞きし、己の力で見抜くしかないのではないか。彼女はそう考え始めていた。
(――もっと見たい)
狭い鳥籠の中だけでなく、もっと広い世界を見て、自力で判断できるようになりたい。
その時には、今度こそ見抜くことができるかもしれない。
「もう一度、ヘリオスに会いたい……」
たとえ見抜けなかったとしても、もう一度だけあの子を信じたいとアウレリアは誰にも言えぬ思いを小さくつぶやいていた。
長いヘリオス&ベルダ陣営中心の物語となった第九章もこれにて終わりです。
アウレリアが彼らと再び会う時は来るのでしょうか。
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第十章もよろしくお願いいたします。




