第九章 神の変容⑨
今は亡き西セルディア国王は、容貌も才覚も凡庸な男だった。
無能とまでは言えずとも、誰もが忠義を捧げたくなるような求心力は皆無であった。
一方、貴族たちから高い人気を集めていたのは、その国王の弟だった。
麗しき王弟殿下――人々からそう呼ばれていた王子こそ、ヘリオスの父である。
だが、その王弟も王弟妃も、国王の妻子たちも全員、三年前の疫病で瞬く間に喪われた。
結果として残った王族は、王甥のヘリオスと王家の血を引かない養女アウレリアだけになってしまったのである。
亡き王弟殿下の血を色濃く受け継ぎ、幼少時から神のごとき美しさと称えられるヘリオスは、一族の希望となった。生まれ順だけで玉座を得られなかった王弟殿下の代わりに、ヘリオス殿下こそ次代の王にふさわしいと、王弟一族は死者への哀惜すら忘れていきり立った。
このような環境で育ったヘリオスが、自分がゆくゆく王になるものと思うのは当然のことだった。
だが、事はそううまくは運ばなかった。
「なぜヘリオス殿下の御名が継承名簿に載らぬのだ!?」
一族の者たちは毎晩のように集い、不満をぶつけ合った。その中で最も彼らが苛立っていたのは、継承名簿の件だった。
東西セルディアにおいて、古来より正式な立太子は成人後とされている。それでも、王位継承権者の順位を記した名簿には未成年でも名を載せられるのは当然の慣習だった。そうでなければ成人王族がいないうちは誰が王位を継ぐか曖昧になってしまう。
だが、国王はヘリオスの名をなかなか継承名簿に記載しようとしなかった。実子を喪ったばかりだから、ヘリオスはまだ幼いからなどと理由をつけて先延ばしにしていたのである。
他に継承権者などいないのに、何をためらっているのか――王弟一族が疑念を抱いていた矢先、驚くべき事実が発覚した。
国王は密かに、王族の遠縁の成人男子を養子として迎え、王太子に据えようと画策していたのである。
(――へえ、面白いじゃん)
その事実を騒がしい親戚たちの会話から聞き取って、ヘリオスはかすかに笑った。
当時まだ九歳の幼子だったはずだが、すでに彼は自分の立場を理解していた。
それだけではない。
彼は、国王が自分に向ける異様な目つきにも気づいていたのである。
(――あんな目で見られたら、さすがに気づくんだけどね)
実際、国王は恐れていたのだ。この甥が、ただの子供ではないということを。
その美しい仮面の裏に、得体の知れぬ怪物を棲まわせていることを、理屈ではなく直感で嗅ぎ取っていたのである。
ゆえに国王はヘリオスを遠ざけ、名簿にも載せず、遠縁でも別の男を王太子に迎えようとした。
それらの動きが示すのは、ヘリオスの未来が閉ざされるということであった。
そんな不穏な空気の中、二年ぶりにヴァルクレウス王国との交友会が開催された。
セルディア王国は東西に分割されても、表立っての戦闘行為は三百年間回避され続けてきた。
その一助となったのが、年に一回行われる両王家の交友会であった。
交友会は毎年東と西の王宮で交互に開催され、大規模な天災や疫病などの凶事でもない限りは中止することなく継続された。
そして西セルディアにおける疫病の蔓延で交友会が中止された翌年。東の王都ヴァルディスに、西セルディア国王の一団が招かれた。
古来より交友会は、成人した王族が集うことになっている。この年に資格を満たしていたのは、西では国王のみ、東では国王夫妻と第一王子のみ。結果として、東から参加したのは第一王子のアレクシスだけであった。
そのアレクシス王子の部下の一人が、交友会に随伴していた王弟一族に接近し、こうささやいた。
「――国王陛下のヘリオス殿下に対する仕打ち、あまりに無体だとは思いませんか?」
それが、すべての始まりだった。
彼らはその後も密談を重ね、国王を排してヘリオスを王位につける計画を進めていったのである。
この年十歳になったばかりのヘリオスに、一族の者たちは当然そのような謀議を教えたりはしなかった。
だが、ヘリオスは自身の侍女に探らせたり、あえてさりげない質問で聞き出したりして、すでにおおよその情報は握っていた。
その上で、彼は親戚の前で悲しげにうなだれてみせたのである。
「ねえ、僕って伯父様から嫌われてるのかな?」
「何をおっしゃいますか、ヘリオス殿下」
親戚の男どもは、少年の頼りなげな瞳に動揺した。
「だって伯父様は僕の名前を名簿に載せてくれないんでしょ? 僕っていらない子なの?」
「そのようなことはございません!」
いつの間に継承名簿の件まで知られていたのか、本来はそこに疑問を抱くべきであったが、彼らはそれよりも目の前の少年を慰める使命感に駆られていた。
「お父様もお母様もいなくなって、僕には伯父様しかいないのに……それでも伯父様にとって僕は邪魔者なのかな……」
「邪魔者? なぜそのような……」
「だって、伯父様はよその知らない人を養子にするんでしょ? そう聞いたんだよ。もしそうなったら、僕はどうなるの?」
ヘリオスは憂いに濡れた瞳を向け、親戚一同に訴えかけた。
「それに……怖いんだ。伯父様が僕を見る目……時々すごく冷たくて。あれを思い出すと夜も怖くて眠れなくなるんだよ……」
「なんとおいたわしい……」
男たちは皆、少年の告白を聞いて胸を潰されるような感覚に陥った。
両親も伯母も従兄弟たちもすべて疫病で喪ったばかりの悲劇の少年。まだ幼いこの子供が、さらに唯一生き残った伯父からも排斥されようとしている。
悲しみに揺れるまばゆい金の髪、怯えて潤む碧い瞳。神が地上に与えた奇跡のようなこの子供を、たかが王一人の歪んだ判断で失うことなど決して許されるべきではない。彼らはみな同じ決意をすでに固めていた。
「ねえ、どうしたらいいの? 僕、このままだといらないから捨てられちゃうの? どうしたら伯父様を止められるの?」
恐怖に怯える幼子をあやすように、一族の男たちはヘリオスを囲んで力強く告げた。
「ご心配はいりません、ヘリオス殿下。我々にお任せください。決してヘリオス殿下が二度と恐怖で眠れぬことなどないよう、必ず成し遂げてさしあげますので」
「ほんと? 約束してくれる?」
「もちろんでございますとも。我々は決してヘリオス殿下を裏切ったりはいたしません」
その宣言が、彼らの命運を決定づけた。
それから二年後、王弟一族は東軍の侵攻に呼応して国王を殺害し、宮廷革命を達成した。
アレクシス王子側としては、特に国王弑逆までは指示しておらず、そこまでしたのは王弟派の暴走だろうと今でも結論づけている。
だが、彼らは知らない。
その弑逆は、年端もいかぬ子供に誘われるように実行されたことなど。
ヘリオスは決して命じない。
常に人の同情、庇護欲、使命感を巧みに見抜き、相手の欲しがる言葉を与え、自ら行動を選ぶように仕向けるだけ。
だからこそ、誰も彼の危険性を見抜けずに来た。
(――まあ、でもおじさんたちが一気に全滅するとは思ってなかったけどね)
ヘリオスは一族の末路を思い出して自嘲する。
確かに宮廷革命は成功した。ヘリオスに誘導されたとも知らず、一族の男たちは血気にはやって王をめった刺しにして玉座を奪い取った。
だが、その弑逆行為を逆に利用され、アレクシス王子によって王弟派は一瞬のうちに滅殺されてしまったのである。さすがにそこまではヘリオスも読めていなかった。まだ幼い彼が読めるのは他人の感情の動きであって、政治や軍事の盤面までは経験不足で読み切れていないのである。
それでも彼は決してくじけない。
捕虜にされれば侍女を操って脱出し、一族を失えば新たな庇護者を見つけ、甘えて取り入る。
そして今、彼は新たな手駒を見つけた。
――聖騎士団長ヴァノ。
男がそう名乗った時、ヘリオスは驚いた。
ルシアの私室前にいつの間にか監視がつけられるようになり、彼は仕方なく侍女の変装のまま出入りせざるを得なくなっていた。そこへ突如、見知らぬ男から身元を問われ、適当にあしらって誤魔化そうとしていたのに、なぜか男の方が勝手に熱を上げてきたのである。
しかも、その役職はベルダの最重要戦力の長。
ただの偶然だったが、相手が自分で転ぶなら好きなように使わせてもらおうと彼は即座に方針を変えたのだ。
「本当に、みんな単純すぎるよね」
ヘリオスは誰もいない室内で、呆れたように小さく笑う。
彼が少し微笑み、手を取り、お願いをするだけで、誰もが面白いくらい簡単に落ちていく。
あまりに手応えがなさすぎることだけが不満だが、人生とはそういうものなのだろうと彼はすでに達観していた。
今まで思い通りに操れなかった女は従姉のアウレリアくらいだが、それでも可愛らしい弟のようなふるまいを疑われることはなかった。だからこそ王都陥落の日に離宮を訪ね、どんな顔をするか眺めるために戦争の話を口にしてみせたのだ。
少し前のことを懐かしみながら、ヘリオスは小さく笑う。今はそんなふうに純粋な従姉で遊んでいる場合ではない。
「まあ、これからちょっと忙しくなりそうかな」
それでもまだ油断はできない。皇后ベルダもまた他の大人たちと同じように操れるかは不明なのだ。
できればもう少し楽しませてほしいと思いながら、彼は今夜も侍女に化け、最も重要な手駒の私室へと向かっていった。
交友会の裏で王弟派にささやいた人物については、外伝「鴉の止まり木」をご覧いただけると、いっそうわかるかと思います。(ダイマ)




