第九章 神の変容⑧
聖騎士団はヴァルクレウス王国において唯一、王家に属しない軍である。
彼らは神の加護を受け、教皇を最高指揮官に戴いているため、国王ですら直接命令することが不可能だった。
十一年前、その長い伝統を破ったのが皇后ベルダである。彼女は国王どころか王妃という立場でありながら、教皇からその職位を譲られ、史上初の女教皇となった。すなわち王族が初めて聖騎士団を束ねることになったのである。
その鮮やかな教皇禅譲劇に大きく貢献したのが、聖騎士団長ヴァノだった。
「あの男の神は天上ではなく御簾の内にいる」
そう陰で言われるほど、ヴァノは熱狂的な皇后信奉者である。
もともと彼は近衛兵団所属の前途ある騎士だった。それが十六年前、異国から輿入れしてくるベルダの護衛隊の隊長に選ばれた時、彼の運命は大きく変わった。
護衛対象の姫、すなわち当時十七歳の花嫁ベルダの素顔を護送任務中に垣間見たヴァノは、そのあまりの美しさに一目で心を奪われてしまった。
――神が地上に降りられた。
ベルダとの出会いは、彼にとってもはや神の降臨そのものだったのだ。
国王に嫁ぎ、翌年には王女を産み、正妃となったベルダは近衛騎士のヴァノをよく頼った。異国から嫁いだ彼女は国内に味方どころか知人すらいない。輿入れの護送中に知り合った護衛隊長を信頼するのも当然ではあったが、ヴァノが選ばれたのはその役職だけでなく、彼の崇拝に近い信奉ぶりだった。この時点で彼の忠誠はすでに王家ではなくベルダ個人に向けられていたのだ。
そして数年後、ヴァノはベルダの依頼で近衛兵団から聖騎士団に異動した。もともと儀礼的な側面の強い聖騎士団は精鋭の集う王国軍より戦闘能力ははるかに劣っていたが、その騎士団を鍛え、旧来よりも練度と技術を上げさせたのは彼の力によるものだった。
その功績が認められ、ヴァノは教皇職を兼ねる皇后ベルダから聖騎士団長に任命され、以降十一年間、皇后の第一の寵臣の座に君臨しているのである。
まだ夜も明けきらない薄闇の回廊を歩きながら、ヴァノは一人歯噛みしていた。
(――また、皇后陛下のご尊顔に拝謁できなかった)
彼が足繁く皇后の元を訪れるのは、単に忠義者だからというだけでなく、一目でも皇后の素顔を見られないかという淡い期待を抱いてのことだった。
ベルダは皇后位を得てからというもの、一度もその素顔を見せなくなった。御簾を下ろし、ヴェールをかぶり、扇子で覆って完全に顔を隠している。
なんともったいないことかとヴァノは常々歯がゆく思っていた。東方では貴人の顔を隠す文化があると聞いたが、何もセルディアに持ち込む必要はないだろうと。
皇后の美しさはまさに神の化身。そう信じて疑わない彼にとって、あえてその美を出し惜しみする文化は理解しがたかった。
それでも何とか素顔を垣間見られないかと、彼はあえて前触れなく皇后の私室を訪れたのだが、美しき主人は御簾の内にこもったまま、指一本すら彼の目に触れさせなかったのである。
(――あのお姿を再び拝めぬものか)
ヴァノは強く噛みしめた奥歯を鳴らす。
彼がベルダの素顔を見たのは、皇后即位式が最後。絢爛な衣装を身にまとい、この世のものとは思えない美の化身が彼の脳裏に焼きついている。彼の記憶のベルダは二十二歳で時を止めてしまったのだ。
何より彼が焦るのは、この長き空白の年月。
(――本当に皇后陛下のお姿は変わっておられないのか?)
不敬な考えであることは彼も重々承知している。それでも湧き起こる疑念を打ち消すことはできなかった。
あの輝かしい即位式から十一年。ベルダは今年三十三歳になる。
それだけの長い期間、あの美貌を保っているのか彼には確認するすべがない。だからこそ知りたいと焦燥に駆られるのだ。
どれだけ神のごとき姿でも、ベルダは生身の人間に過ぎない。
地上の神と崇めながらも、一方でその冷たい事実がちらちらと頭をかすめ、彼の心は千々に乱れていたのである。
荒れ狂う胸中の嵐を抑えながら足早に外回廊を進んでいると、ヴァノは白み始めた暁天の下、小さな人影を見つけた。
(――あれは、王女離宮の方角?)
その人影が出てきたのは、ルシア王女の私室のある離宮の方向だった。
いくら「神に見放された姫」と陰で呼ばれる王女でも、不審者の出入りは見過ごすわけにはいかない。たとえどんな容貌であろうと、神たる皇后の娘には違いないのだから。
彼はさらに足を速め、静かに不審者のそばに近づいた。
(――何だ? 侍女か?)
長い黒髪を結いもせずたなびかせ、悠然と歩くその姿は、侍女の服を着ていてもどこか違和感があった。
「おい、止まれ! おまえはどこの所属だ!?」
ヴァノは聖騎士団長として怪しい侍女の身元確認をしようとした。すると、その侍女は呼びかけに足を止め、少し困ったように小首を傾げながら彼を見上げてきた。
その瞬間、
「な、何だ……!?」
ヴァノは思わずうめき声を上げた。
長い黒髪に彩られた白い頬。
豊かな睫毛の下から覗く碧い瞳。
神の色ではないはずなのに、そのあまりに精巧な彫像のごとき姿に、彼は全身の震えを止めることができなかった。
「おじさん、誰?」
その美しき子供が発したのは、歳も性も感じさせない柔らかな声音。目だけでなく耳すらも祝福に染められて、彼は震える声で名乗るのが精一杯だった。
「わ、私は、聖騎士団長のヴァノと申します……」
「へえ、そうなんだ」
子供はあどけない笑顔を向ける。これまで見たどんな宗教画をも凌駕するほどの美を携えて。
そして薄い唇の端を小さく吊り上げると、その子供は突如、黒髪を脱ぎ去った。
黒い鬘に覆われていたのは、目にもまばゆい金の髪。
昇り始めた朝日を浴びて、その髪の徴はヴァノの瞳と脳を焼いた。
彼の眼前に現れたのは、まさに神そのものの姿だったのだ。
「びっくりさせてごめんね。僕はルシア王女の婚約者のヘリオス。ここで僕に会ったことはみんなには内緒にしてくれるかな」
ヘリオスは子供らしい悪戯っぽい笑顔でヴァノに口止めする。
その笑みこそが、まさに神の寵児の証であった。
「もちろんにございます! このことは未来永劫、誰にも口外いたしません!」
「え? いや、別にそこまでは……まあいいか」
顔を真っ赤にして叫ぶヴァノにヘリオスはやや困惑したが、すぐに思い直したように、ゆっくりと彼の手を取った。
「それじゃあ君と僕の二人だけの秘密だよ?」
神の寵児は聖騎士団長の手をそっと握りしめ、吐息が触れるほど近くでそうささやく。
「決して破りませぬ! ありがとうございます! ありがとうございます! ヘリオス様!」
ヴァノは涙を流しながら、忠誠と感謝を絶叫した。
この瞬間、彼の信仰は新たな神へと改宗を果たしたのである。
まさかのタイトル回収がここに――!!




