第九章 神の変容⑦
ヘリオスが侍女に化けるために用意させた黒髪の鬘は、当然のこと既製品ではない。
金髪に近いほど尊ばれるこの国で、黒髪の鬘の需要などほぼ無きに等しいのである。
だが、ヘリオスはあえて神性を隠すために黒髪を必要とした。しかもできるだけ早く用意しなければならない。その難題に直面した侍女たちが思いついた解決策は、己の髪を捧げることであった。
命じられた内の幾人かが自ら長い黒髪を切り落とし、職人に命じてほぼ一晩で完成させたのである。
だが彼女たちにとって、それは痛みを伴う犠牲ではなかった。むしろ、神性から最も遠い己の黒髪が、神の寵児の身を装っているという事実に陶酔していた。
侍女たちからの恍惚の視線など気にも留めず、彼は今夜もまたその信仰の証たる鬘をかぶってルシアの私室を訪れた。
「ティニア……今夜も来てくれたのね」
唯一の味方となった「侍女ティニア」に、ルシアは完全になついていた。
相変わらず室内は暗いものの、灯火の数は多少増え、お互いの顔が以前よりはよく見えるようになっている。
ルシアとしては素顔を見せたくない気持ちに変わりはないが、あまりに手元が暗いと治療のために軟膏を塗るのも一苦労だからである。「侍女ティニア」のため、彼女はあえて明かりを増やす譲歩をしたのであった。
「もちろんです。私はルシア様の味方ですから」
「私に触れてくれるのはあなただけよ……ティニア。医師もこの顔を恐れて寄ろうともしなかったのだから」
白い仮面を外し、今夜もまたルシアは素顔をさらす。
彼女のひどい爛れは、医師をも怯えさせた。その患部の惨さから目を背けただけではない。もし下手に手出しして治せなければ、皇后に処罰されると恐れたためである。
だが、医師の拒絶は彼女をさらなる孤独へ追いやった。誰も彼女をまともに治そうともしない中、唯一素手で触れ、薬を塗ってくれる侍女に心を開くのは当然の結果であった。
「それは大変おつらかったでしょうね。私は恐れたりなどしませんから」
「ありがとう……ティニア……」
優しく軟膏を塗りこめる指先に、今は心地よさすら感じられる。目にうっすら涙を浮かべ、その手に癒されながらルシアは心からの感謝を伝えた。
すると、「侍女ティニア」は不意に薬を塗る手を止め、王女の顔をしげしげと覗き込んできた。
「ルシア様……その眼はどうされましたか?」
問われて、はっとしたようにルシアは思わず右目を手で覆った。
「駄目よ、こんな醜いもの……見るようなものじゃないわ」
前よりも部屋を明るくしたことで、その眼の異様さに「侍女ティニア」もようやく気づいた。
元は黒いはずのルシアの右目は白濁し、眼球も焦点が定まっていなかったのである。
「もしかして、その瞳は『聖女の涙』を使われたのですか?」
「そうよ……おかしいでしょう。確かに瞳の黒さは消えたけど、余計に醜くなってしまうなんて」
それは事前にルシアの侍女が言っていた通り、瞳の色を変えるという危険な目薬の後遺症であった。
神に見放された色を消そうとして、彼女は光ごと失ってしまったのだ。
それでも滴下した際の痛みが強すぎて中断したため、障害が片目だけで済んだのは幸いではあった。
――もし両目とも光を失っていれば、神の寵児の武器が効かなかったはずなのだから。
「いいえ、ルシア様の左目が無事で何よりでした。今、私の姿は見えているのですよね?」
無言でうなずくルシアに、従順な侍女は不意に真剣な眼差しを向けてきた。
「ではルシア様。今夜は私の秘密を打ち明けてもよろしいでしょうか」
「……あなたに秘密があるの?」
「ええ。ですが……真実を知ったらルシア様は私のことをお嫌いになってしまうかもしれません」
怯えたように視線を揺らすその様子に、ルシアは力強く答えた。
「そんなことないわ! 私があなたを嫌うはずがないでしょう! 他の誰があなたを嫌おうとも、私はあなたを信じるわ……!」
「ありがとうございます。ではこの先、何があっても大きな声を上げないと約束していただけますか?」
「え……ええ、もちろんよ。約束するわ」
言質を取ると、「侍女ティニア」はずるりと無造作に黒髪の鬘を脱ぎ去った。自身の髪をむしり取ったのかと誤認したルシアは思わず悲鳴を上げそうになったが、ヘリオスがその唇に指をあてて黙らせた。
「声を上げないって約束したでしょ?」
悪戯っぽく笑って見せるその瞳も、王族への不敬な物言いも、もはやそれは従順な侍女のものではなかった。
「これが僕の本当の姿。やっぱり嫌いになっちゃった?」
「え……あ……あの……ティニア、は……?」
動揺して声を失うルシアの手を優しく握りしめ、彼は悠然と笑いかける。
「ねえ、ルシア。僕の本当の名前で呼んでくれる? 僕はヘリオスって言うんだ」
まだ完全に声変わりしていないとはいえ、彼はすでに女性を真似た柔らかな声音ではなく、色香の混じった少年の口ぶりに戻っている。
甘い言葉に誘われるように、ルシアは思わずその名を口走っていた。
「ヘリオス……様……」
まるでうわ言のように、彼女は誘われるままにその名を呼んだ。それは、まさに神の寵児が現世に顕現した瞬間であった。
まだ王子と明かす前に、もはや王女は自ら下った。呼称でそれを確信すると、ヘリオスはルシアの細い肩を抱き寄せ、耳元でささやいた。
「今夜はこのまま一緒にいてもいい? 君のそばから離れたくないんだ」
温かな吐息とともに甘い声が耳を撫でる。すべてが初めての経験で、ルシアは完全に混乱していた。
「そんな、私なんて……」
「君じゃないと駄目なんだよ」
碧い真摯な瞳でまっすぐに射貫かれ、ルシアは拒むことなどできなかった。
ルシアが恥じらうように小さく頷くと、ヘリオスは彼女の頭をゆっくりと撫で、そして腕の中に抱きとめた。
その夜、二人の間に特別なことなどなかった。
ただ同じ寝台で、唯一心を預けられる人の腕に抱きしめられて一晩を過ごしただけ。
それだけのことが、ルシアのこれまでの生涯で最も幸福な時間だった。
ヘリオス君、ついにミッション達成しました!




