第九章 神の変容③
ヘリオスは諦めずに侍女姿で毎日ルシアの元へ通い続けたが、結果は思わしくなかった。
何しろルシアには好物と言える食べ物もない。好きな花もない。贈り物で気を引くことが不可能だった。
実際には好みや趣味はあったのかもしれないが、誰も彼女の内心など知ろうとせず、十五年間放置されてきたのである。
それでも繰り返すことにより、少しずつわかってきたことがある。
どうやらルシアは甘いものが好きらしい。基本的には小食で食べ残しが多かったが、蜂蜜や果実の菓子類はきちんと食べられていた。
「ルシア様は甘いものがお好きなんですね。今度は何をお持ちしましょうか?」
根気強く通い続ける「侍女ティニア」は、天蓋の奥に引きこもる主人にそう話しかけた。
これまで何度話しかけようと沈黙だけが返ってきていたが、この日は珍しく小さな変化があった。
「なぜ……私になど構うの……? 放っておいてよ……今までみんなそうしてきたのに……」
弱々しい声が布越しに聞こえてくる。
これまでルシアにとって侍女とは無言で作業だけを終えて立ち去る存在だった。それが、このティニアと名乗る者だけが唯一、沈黙にもめげずに声をかけ続けてきたのである。彼女がついに戸惑いを口にするのも無理はなかった。
「私は皆とは違いますから」
ヘリオスは他の侍女たちの声音を真似て、澄ました口調でそう答えた。
だが、姿は偽りでもその言葉は真実であった。
何しろ彼は、明らかに人とは違う身分も容姿も能力も持っているのだから。
「ルシア様もそうでしょう? 皆とは違うのに、侍女の視線など気にすることはございません」
ルシアもまた侍女などとは比べ物にならぬ身分である。たかが使用人の中傷など気にする必要もないとは彼の本音でもあった。
だが、ルシアはそれに賛同することはできなかった。
「侍女だけじゃない! お母様も、先生も、兵士も、みんな、私の顔を見ると目を背けるのよ! 私がこんな顔で生まれたせいで! こんな顔、なくなってしまえばいいんだわ!」
沈黙から一転、ルシアは激昂し、天蓋から腕だけ出して卓上の食事用ナイフに手を伸ばした。
やせ細った繊手がナイフの柄を握りしめ、仮面の奥に突き立てようとする。
開いた天蓋の隙間からそれを目撃し、ヘリオスはすぐさま寝台に乗り込んだ。
「いけません、ルシア様!」
さすがにここで自害でもされるわけにはいかない。荒事の不得手な彼でも、ここは体を張って止めるしかなかった。
ルシアより三つ下とはいえ、相手は女で、しかもやせ細って筋力など皆無である。華奢な少年でも自傷を止めることは不可能ではなかった。
だが完全には制圧できず、もぎ取ろうとしたナイフはルシアの仮面ごと床に弾き飛ばされた。
「いやああああ! 見ないでえええええ!!」
仮面を失ったルシアは一瞬の自失後、大声で泣き叫び、寝台にうずくまった。他人に見られまいと、両手でその顔面を覆ったまま。
だが、彼女が短く硬直している間に、ヘリオスはすでに仮面の下の素顔を見ていた。
黒い髪に黒い瞳。神から遠いその色だけではない。
低い鼻梁に細く小さな眼。
平坦な顔立ちに浅黒い肌。
母ベルダから忌避された原因であろうその相貌――彼女の風体はまるでセルディア人とは似ても似つかなかったのだ。
そして今、最も目を引くのは器量の良し悪しよりも、その顔面全体を覆うひどい爛れの痕だった。
「いやぁ! 見ないで! 出て行って! こんな醜い顔、誰にも見られたくないの!」
ルシアは枕に自分の顔を埋め、視線から逃れようと必死にもがく。
その様子をじっと見つめながら、ヘリオスは静かに尋ねた。
「その怪我はいつからです?」
「出て行けって言ってるでしょう!」
こうなってはもはや会話は成立しない。恐慌状態のルシアを刺激するのをやめ、ヘリオスは床に転がった仮面を拾い上げると、寝台の上にそっと乗せた。
「これは危ないので持ち帰りますね」
そう言ってルシアが自分を刺そうとしたナイフを回収すると、それ以上は何も言わずに部屋を出て行った。
ヘリオス君、ここへ来て俄然、肉体労働多めです。
侍女に任せられない領域になると、本人もできる限り体を張ります。
ちなみにトゥレン君が同じことをしようとすると、十中八九、暴れるルシア姫に刺されると思います。
ところで、本編とは別に現在、「黄金のアウレリア」前日譚の外伝「鴉の止まり木」を連載中です。全10話予定の中編。
主人公はユリウスの父マクシム。なぜ彼は『鴉』になったのか、どのようにアウレリアは聖女になったのか――本編とも直接繋がる物語ですので、是非ご覧くださいませ。




