第九章 神の変容②
「まあ! 何と言うことでしょう! ヘリオス様のお美しいお顔から血が……!」
自室に退散してきたヘリオスを見るなり、侍女はわなわなと震え出した。
言われて部屋の鏡を覗き込むと、頬にうっすらと線が走り、わずかに血がにじんでいるのが見えた。
慌てていたためあまり意識していなかったが、ルシアに投げつけられた本の角あたりで引っ掻いたのだろう。花瓶が投下される前に逃げ出して良かったと彼は改めて思った。
「心配してくれてありがとう。このくらい平気だよ」
ヘリオスが微笑むと、侍女は両手を合わせて感じ入った。
「ああ、おいたわしいヘリオス様……」
「君が手当てしてくれたらすぐに治っちゃうよ。ねえ、それよりルシア王女の侍女を呼んできてくれないかな? いろいろと聞きたいことがあるんだ」
今にも天に召されそうな表情を浮かべていた侍女は、ルシアの名を聞くと急に不安げな様子でおずおずと尋ねてきた。
「あの……ルシア様と何かございましたか?」
何かどころではないが、ヘリオスはあえて口にしなかった。もしルシアに傷つけられたなどと正直に話せば、侍女が逆上して二人を引き離そうとするのは目に見えている。
今は何としても本人との対話に漕ぎつけなければならない。協力者にルシアへの反感を持たせるような言動は、できるだけ避けるべきであった。
「ルシア王女は恥ずかしがり屋さんみたいなんだ。だから君たちみんなに助けてほしいんだよ。前に閉じ込められてた僕を救ってくれたみたいに」
ヘリオスは侍女の手を握りしめ、上目遣いで協力をねだる。その潤んだような碧い瞳に見つめられ、侍女は感涙にむせびながら絶対の忠誠を叫んだ。
「もちろんでございます! 私たちのような者でよければ、いくらでも力になりますとも!」
その侍女の宣言は真実であった。
彼女の言う通り、召集されたルシア専属の侍女たちも、ヘリオスに目通りするなり一瞬で陥落した。
「どうか何なりとお申し付けください! 私どもも全力でヘリオス様をお支えします!」
ヘリオスの微笑みであっさり主人を乗り換えた侍女たちは、全員で固い忠誠を誓った。
「ありがとう。じゃあ、ルシア王女について知ってることを教えてくれないかな。僕のお嫁さんになる人のことはいろいろと知っておきたいからね」
長椅子に寝そべったままの姿勢も、だらしないと諫めるどころか愛おしげに彼女たちは見つめている。主の下問にもうっとりした表情で答えた。
「まあ、何てお優しいんでしょう。ルシア殿下にはとてももったいないですわ」
「もったいない?」
小首を傾げるヘリオスに、この中で最も長く勤める侍女が答えた。
「ええ、さようでございます。ルシア殿下はお美しい皇后様と似ても似つかぬお顔をご自分で毛嫌いされて、常に仮面をつけて暗い部屋で一日中過ごしておられるのです」
十五年前、ルシアが誕生した時にベルダはたいそう落胆した。
そもそも王位継承権のない女児の時点で期待外れだった上、容貌までも自身と何一つ似ていなかったのである。
一般的に新生児というのは、その時点ではまだ髪や瞳の色も、顔立ちも安定していない。だが、ルシアの場合は誕生時から親と似ていないことは明白だった。あと数年待ったところでそれが改善される望みはない。
そのため、次の子供に賭けようと、当時十八歳の母妃ベルダはすぐさま思考を切り替えた。新生児のルシアの世話は乳母に丸投げし、顔を見に行くことさえしないほど徹底していた。
だが、彼女の計画は大いに狂った。
ルシア誕生から間もなく、夫である国王が病に倒れたのだ。
病床に臥せって身動きも取れない王との間に新たな子供は望めない。すでに世継ぎとしては前王妃との嫡男アレクシスがいる。これではアレクシス王子が即位した場合、自分の地位が危うくなる。そのことを察したベルダは、何としてでも娘に世継ぎとなる王孫を産ませる必要ができたのである。
無論、ただの子供ではアレクシス王子を押しのけてまで王位を受け継ぐ理由がない。
それゆえにベルダが求めたのは「神の徴」であった。
そして今、その形質に最も近い男子が、旧西王国の王子にして「神の寵児」とまで呼ばれるヘリオスなのである。
「そういえば僕、まだ皇后様の素顔も見たことなかったなあ。そんなに親子で似てないんだ」
皇后は現在、人前では黒いヴェールをかぶっており、保護しているヘリオスにもまだその素顔をさらしたことがない。
そもそもあのアレクシス王子の凱旋報告以来、ベルダとヘリオスは直接話す機会もなかった。だからこうしてヘリオスは、保身のために自ら動かざるを得ないのである。
「ええ、それはもう。皇后様のお姿は今まで伝説の聖女のようと言われておりましたから。それに比べてルシア様は……他人、特に男性を怖がってしまい、声を聞いただけでも暴れ出してしまうのです」
そこまでわかっているなら事前に言ってほしかったと思ったが、ヘリオスはあえて口にはしなかった。
「そうなんだ。そんなところに閉じこもってたら、あんまり健康に良くなさそうだね」
「さようでございます! 皆、薄気味悪がって出仕したがらないのです!」
「ふうん、でも君はちゃんと仕えてて偉いね」
軽い口調でヘリオスが褒めると、侍女はにわかに頬を染めた。
「ヘリオス様……! そんな、もったいのうございます!」
本来ならば王国唯一の王女、しかも絶大な権力を持つ皇后の娘に仕えるなど栄誉の極みである。皆でその侍女枠を奪い合ってもおかしくないのだが、この国ではむしろ押し付け合っていた。
王族の侍女ともなると、ただの使用人ではない。もともとそれなりの家柄の娘から選出され、侍女側も王宮勤めで箔をつける、または良い縁談相手を見つける目的で入るのが常である。
だが、この国の場合は現状、その常識が通用しない。
第一王子アレクシスは十年前に実家である王宮を出て以来、一切侍女を置いていない。採用枠すら存在しない。
第一王女ルシアは引きこもったまま外界との接触を一切拒否している。社交の場が絶無で、良縁探しどころではない。
国王は病に臥せって以降、侍医とわずかな者しか接触を許されない。
結果、絶大な権力を誇る皇后ベルダの侍女のみが唯一の枠となり、年頃の良家の娘たちがこぞって就きたがるようになっていった。
ルシア担当にされたまま未来に絶望していた侍女たちにとって、ヘリオスはその見た目だけでなく救いの神にも等しい存在だったのである。
「それで、男の人が苦手なのは何で?」
ヘリオスの下問に、侍女は重そうに口を開いた。
「それは……『金の君』のせいではないかと」
「金の君?」
「はい……皇后陛下が以前に用意された、ルシア殿下の婚約者候補の方です」
まだヘリオスが捕虜としてヴァルディス王宮にやってくるなどと誰も想像していなかった頃、ベルダはルシアが成人を迎える前に金髪の適当な貴族を将来の夫としてあてがった。
元は貧乏貴族の三男だというその男は当然舞い上がり、意気込んで王女の元を訪れた。そして、あろうことか予告もなくルシアの私室に乱入し、その仮面を無理やり引き剝がそうとしたのである。
ルシアは突然の乱暴に悲鳴を上げ、手当たり次第に物を投げつけた。そして重い燭台が頭部を直撃し、金の君は昏倒した。以降、ルシアは私室のさらに寝台の天蓋奥に引きこもり、部屋の明かりもほとんど消してしまったのだ。
ヘリオスが初めにルシアに会った時、子供とはいえ男性名を名乗り、天蓋の奥を覗き込んだため、過去の恐怖が甦って暴れたのだろう。
「それにしても、そんな状態で結婚なんてできるのかなあ」
「ええ、本当に……あのような方を妻にするなど、ヘリオス様が不憫でなりません!」
神の下問に、侍女は勢い込んでそう答える。もはや彼女の心の主人は、完全にヘリオスに塗り替えられていた。
これまで溜まりに溜まった不満の反動もあっただろう。ルシアとヘリオスを婚姻させるという目的すら見失いかけている。
そんな彼女たちを軌道修正すべく、ヘリオスは自分の計画へとやんわり導いた。
「うーん、でもまあ仲良くなる方法はありそうだけどね」
「本当でございますか?」
「その代わり、君たちにまた手伝ってもらう必要があるんだけど、いいかな?」
無邪気な笑顔で尋ねられ、彼女たちに許諾以外の選択肢はなかった。
その夜、ルシアの私室の扉は定刻に開かれた。
「ルシア殿下、お食事の時間でございます」
いつもの侍女が、寝台の天蓋奥に引きこもる主人に声をかけ、夕食の盆を寝台脇にそっと置く。侍女が出ていった後、ルシアが出てきて一人で食事をとり、後でまた皿を回収するというのが長年の慣例となっていた。
しかし、今夜はいつもとは違う。
私室にもう一人の侍女が入ってきたのである。
「ルシア殿下、本日は新入りの侍女がお目通りを願っております」
「…………」
ルシアも天蓋の向こうから気づいていたのだろう。布越しにも人影がかすかに震えているのが見て取れる。
だが、そんな主人の様子には頓着せず、もう一人の侍女はゆったりとした口ぶりで名乗り出た。
「初めてお目にかかります、ルシア様。新入りのティニアと申します。どうか一言だけでもお声を賜れませんでしょうか」
よく通る柔らかな声音。甘くねだるような口調は、ごく普通の人間なら警戒心をすぐに解いてしまっただろう。だが、ルシアは普通ではなかった。
「…………んで……」
かすかなつぶやきが天蓋から漏れる。
新入りの侍女は思わず聞き返した。
「ルシア様?」
すると、ルシアはまるで堰を切ったように大声で叫んだ。
「何で会いたいなんて言うのよ! 今まで一度も誰もそんなこと言わなかったくせに!」
普段声を発しない反動か、そう叫んだだけでルシアはすでに息切れをしている。
ぜえぜえと荒い息を吐きながら、彼女はさらに続けた。
「どうせおまえもお母様の差し金でしょう! 来ないで! 早く帰って!」
「ルシア様……」
何とか侍女たちがなだめようとしても、もはや逆効果だった。
「出ていけええええええええ!!」
そう絶叫すると、ルシアは前日と同じように枕を投げつけ、新入りの侍女の顔面に直撃した。
ルシアの私室を下がるや否や、年嵩の侍女は新入りに向かって平伏した。
「大変申し訳ございません! まさかあのような狼藉を働くなど……!」
「大丈夫だよ、枕くらい」
今度は花瓶でなくて良かったと、新入り侍女――ことヘリオスはやや安堵していた。
ひとまず用がなくなった黒い鬘を無造作に脱ぐと、まばゆい金髪が露わになる。
彼は再びルシアに会うため、今度は侍女に化けての接触を試みたのである。
鬘と衣装は他の侍女たちに用意させ、偽名は自らの王族名ユスティヌスの一部から取り、ティニアと名乗ることにした。
だが、いくら女のふりをしたところで、ルシアは簡単に心を開くことはなかった。
結果、彼の輝かしい戦果に二連敗という瑕をつけたのである。
「まあ、もうちょっと時間をかけるしかないかなあ」
「あの……またルシア様にお会いになるおつもりなのでしょうか」
ぼやくヘリオスに、侍女はおずおずと尋ねた。彼女としてはこれ以上、ヘリオスがルシアに傷つけられるのは耐えられなかったのである。
だが、ヘリオスは全く気にしている様子はなかった。
「もちろん。だってまだお嫁さんになる人の顔すら見てないんだよ? あ、今度はルシア王女の好きな食べ物でも持ってこようかな」
黒髪の鬘を指先でくるくると回して弄びながら、ヘリオスは回廊をゆるやかに歩き始める。
なんと一途な方なのだろうと、侍女はその背を見つめながら手を合わせて拝んでいた。
だが、実際にはヘリオスにとって、このルシア攻略の可否は死活問題なのである。己が生き延びるためには女装だろうとご機嫌取りだろうと、そつなくこなす――それこそがヘリオスという存在の真理であった。
ヘリオス、まさかの二連敗。
攻略が難航しているようです。
そして侍女たち、最低限の「報・連・相」はちゃんとしておきましょう!




