第九章 神の変容①
皇后ベルダの一人娘ルシアは今年で十五歳になった。
翌年には成人し、公式の場にも出席しなければならない。にも関わらず、この王女は自室から一切外に出ようとしなかった。
現状、ベルダの娘婿となることが唯一の活路であるヘリオスにとって、これは実に由々しき事態であった。今まで周囲の人間を自在に操ってきた彼も、これには少々攻めあぐねていた。
「ねえ、ルシア王女ってどうして人前に出てこないの?」
先日、反乱を起こしてそのまま付き従ってきた侍女の一人にヘリオスは尋ねた。
「ルシア様は……その、ご自身のお姿をとても気にされているようでして……」
「気にしてるってどういうこと?」
「皇后陛下は白金の髪と淡い琥珀色の瞳に大変お美しい容貌をお持ちですが……ルシア様は黒髪と黒眼でお生まれになったのだそうです」
「へえ、黒い髪や瞳なんて別に珍しくないのに、そんなに気にしてるんだ」
侍女の説明にヘリオスは小首を傾げた。
実際、セルディア地域では大半の者が黒や茶系の濃い色の髪や瞳を持っている。いくら母親が美しい色でも子供に受け継がれないことは珍しくない。王侯貴族でも黒髪や黒眼は多くいるにも関わらず、そこまでこだわるものだろうかと彼は疑問に思ったのだ。
「申し訳ございません……私どもはまだ入ったばかりで王宮内についてよく存じませんので……」
侍女はそう言って深々と頭を下げた。今ヘリオスに仕えている侍女は、もともとは皇后と敵対する王国軍兵士の親族である。虜囚となったヘリオスのために選抜され、初めて貴人に仕えた者たちばかりだったため、王宮の内部事情はほぼ何も知らなかった。今の説明も王都の住民ならたいてい知っている程度の内容なのだ。
「あーあ、せっかく婚約者になったのにルシア王女に会えないなんて寂しいなあ」
ヘリオスは目を伏せ、残念そうにそうつぶやいた。
碧く澄んだ瞳が憂いに濡れ、侍女の胸を強く締めつける。
「ヘリオス様、どうかお気を落とさず。私どもで何とかルシア様の侍女に話を通してみますから」
「本当? ありがとう。君は本当に優しいんだね」
ヘリオスは大理石のような白い頬を薄く染めながら、侍女の手をそっと握りしめた。あどけない笑顔と柔らかな手の感触に包まれて、侍女は思わず涙がこぼれそうになる。
本来、平民出身の侍女など、王女付きの侍女と対等に話せるような間柄ではない。話しに行くだけでもかなりの度胸と根回しが必要なのだ。
だが、どんな苦難があろうとこの御方の力になりたい――その決意を胸に、彼女は急いでルシアの侍女の元へと駆け出していった。
慌てて出てゆく侍女を見送ると、ヘリオスは長椅子に体を投げ出した。
「まあ、焦ってもしょうがないかなあ」
姿勢を崩して完全にくつろぎながら、彼は小さくつぶやいた。
この部屋はベルダが用意させた貴賓室である。以前に監禁されていた王子離宮の一室とは違って広く、内装も調度品も金糸の刺繍をふんだんに施した豪奢な設えになっている。
その贅を尽くした待遇が、ベルダのヘリオスに対する期待の重さを表していた。
ヘリオスへの期待――それは、ルシアとの間に「黄金の子」を生すこと。ただそれだけである。
無論、まだ十二歳のヘリオスは、成人するまで公式に結婚することは不可能である。だが、ベルダにとって必要なのはヘリオスの旧西王家の血統ではない。ヘリオスが持つ「黄金の血」だけなのだ。
眼にもまばゆい金の髪。
見るものを恍惚へと導くほどの麗しき「神の寵児」。
その血を引き入れれば、たとえ黒髪黒眼のルシアを母体としても、「神の徴」を持つ子が生まれる可能性は大いに上がるだろう。
ルシアは来年には成人する。そうなれば婚姻も出産も正式に認められる。であれば、黄金の血筋を継ぐ子さえ設ければ、夫役は不要となる。実父は誰であっても、黄金の子さえ獲得できれば適当な成人男性を正式な夫に迎えれば良いのだ。
すなわち、ヘリオスが必要とされるのはルシアが黄金の子を産むまでの間のみ。
そして、その事実をヘリオス自身も充分に理解していた。
だからこそ、ヘリオスとしては今の猶予期間のうちにできる限りの手を打つ必要があったのだ。
ほどなくして、侍女たちのお膳立てにより、ヘリオスはルシアの私室に通された。
もともと皇后からお墨付きの番候補である以上、ルシア本人の意思はそこまで尊重されなかったのである。
樫材の堅牢な扉が重々しく開かれ、ヘリオスは悠然と室内に足を踏み入れ――ようとして、思わず足を止めた。
部屋の窓は全て鎧戸が閉めきられ、ぼんやりとした小さな灯火の明かりだけが揺らめいている。
暗がりの中で辺りを見回しても、いるはずのルシアが見当たらない。
まさか部屋を間違えたのかと彼が思い始めたその時、
「……誰かいるの?」
弱々しい声が薄闇の奥から聞こえてきた。
目を凝らしてよく見ると、どうやら暗い色の天蓋に覆われた寝台からその声は発せられているようだった。
やはりいたとひとまず安堵し、ヘリオスは気を取り直して天蓋越しの影に話しかける。
「やあ、初めまして。君がルシア王女なんだよね? 僕はヘリオス。家がなくなっちゃったから今は皇后様のお世話になってるんだ」
己の身分については最初から明かさず、彼はまず皇后の名を出し、身近な存在だと告げることで警戒心を解こうとした。
「ねえ、そっちに行ってもいい? もっと近くでお話ししたいんだ」
ヘリオスは甘えるような声音で寝台に歩み寄る。
「僕、家族がみんないなくなっちゃったんだよ。できれば君がお姉さんになってくれると嬉しいな」
彼を取り巻く侍女たちであれば、この時点で歓喜の涙を流してひれ伏していただろう。だが、ルシアは何も語らない。天蓋の向こうからは声どころか衣ずれの音一つしなかった。
外界との接触を断ち、自室に引きこもり続ける王女――それが事実なら、どう反応すべきかわからないのかもしれない。
それでも、まずは顔を合わせなければこれ以上進展しようがない。ヘリオスはやや強引ではあったが、子供らしい無邪気さを盾に、寝台から動かない王女の顔を見ようとした。
彼はそっと天蓋の端をつまみ上げ、寝台の奥にうずくまる人影を覗き込む。
(――え……?)
その時、ヘリオスは思わず息を止めた。
瞬きすらも忘れ、身動きができなかった。
国が滅び、一族が処刑され、自身も囚われの身となっても、常に思考を絶やさず切り抜けてきた彼が、今この時、初めて本当に動揺していたのである。
暗い寝台の奥に、彼は見た。
ほのかな灯火に照らされ、闇に浮かび上がる白い顔。
その顔には目も鼻も口もない。
――陶器でできた真っ白な仮面が、彼の方をじっと睨みつけてきたのだ。
ヘリオスが息を飲んだまま硬直していると、その仮面は小刻みに震え始めた。それを見てようやく何か声をかけようとした彼は、だが次の瞬間、その行動を封じられてしまった。
「来るなあああああああああ!!」
とてつもない絶叫が室内に響き渡る。
半狂乱になった仮面の主は、次の瞬間、手元にあった枕や本を次から次へと投げつけてきた。
「えっ、ちょっと待っ」
ヘリオスの制止の声は、顔に命中した枕で遮られる。
仮面の人影は、さらに重そうな花瓶を持ち上げて今にも投げようと構えてくる。
さすがに命の危険を察し、彼はついに逃走を開始した。
第九章がスタートしました。
しばらく出ていなかった敵陣営側にフォーカスを当てた章となります。
いきなりハニトラが効かないお姫様の登場に、ヘリオスはどう立ち回るのか!?
次回、乞うご期待!




