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黄金のアウレリア ―セルディア王国記―  作者: 北峰
第二部 黄金の雛鳥

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第八章 神の瞳⑧

 イアスから細かな報告を受けた後、トゥレンはおっさん呼ばわりされた時よりさらに老け込んだような形相になっていた。

 彼にとってはにわかに信じがたいことが、いくつも戦場で起きていたのである。


 まずは、主君の昏倒。

 目撃したのがごく一部だったのが不幸中の幸いだが、まさかそんな事態になるなど予想すらしていなかった。それも戦傷ではなく過労による発熱などと。


 そして、その看病を聖女が行った。

 それ自体はなりゆきで仕方がないと理解できるが、そのせいでどうやら例の呼び捨て定着にまで発展したようである。


 これは、戦略上あまり歓迎できない展開であった。

 もともと聖女との共闘は皇后派打倒までのかりそめの関係に過ぎない。国内平定が済めば、用済みとして処分する可能性もまだ充分残っているのである。それなのに、先に二人が親密だと周囲に誤解されては、後々切り捨てるのが難しくなる。今はできるだけ疎遠にしておくべきだったのだ。


 せめて呼称だけでも注意したいところだが、すでに一度主君から直接「好きに呼ばせておけ」と言われてしまっている以上、強くはとがめられない。

 全力で頭を掻きむしりたい衝動を必死でこらえながら、イアスに報告の続きをさせると、彼は手にしていた布の包みを上司に差し出してきた。


「これは……何の入れ物です?」


 目の前のそれを見てトゥレンは訝しげに問う。

 布にくるまれていたのは、割れた陶器の破片だった。しかも一部は黒く焦げた跡が残っている。


「あのエピオナ人捕虜が使った武器です」


 それはあの男がレックスを襲撃した際、投げ込んできた容器だった。引火性の液体が入れられ、地面に投げつけただけで火がつき、天幕の一部を燃やしたのである。恐らくは陽動のためだけに使われ、炎の威力は大したことはなかったが、これまでに見たことのない武器であるのは間違いなかった。


 トゥレンは注意深く指先で破片を拭ったが、中身は油の類ではなさそうだった。無論、彼には充分に心当たりがある。これこそが、恐れていた『燃える水』を使った武器なのだと。

 だが、彼はそのことを口にはせず、破片を受け取ったままイアスを持ち場に帰らせた。


(――なぜこうも次から次へと厄介事ばかり降ってくるのだ)


 一人になった後、トゥレンは執務室の卓上で頭を抱えた。

 とはいえ絶望ばかりしている場合ではない。少しは外の風に当たろうと、彼は執務室のすぐ裏手にある菜園に向かった。




 軍の敷地内には自給自足用の広大な畑はあるが、この小さな菜園では主に薬草や要人用の特別な食材を育てている。普段はほとんど人気ひとけがなく、たまに頭を冷やしたい時に彼がひっそり訪れる一角となっていた。


 そこで風に揺れる白い小花を静かに見つめていると、唐突に嘔吐感がせり上がり、彼は慌てて口元を布で押さえた。

 咳き込んだ後の布を見やると、不吉な色が混じっている。


 白布を染める、赤黒い血の痕。

 胸元を押さえ、息を整えながら、彼は小さくつぶやいた。


「駄目だ……今は、まだ――……」


(――自分は、主君の覇道を見届けなければならない)


 その思いが彼を焦らせる。

 たとえ己の支えがなくとも、あの主君ならばきっと覇業を達成するだろう。だが、その血塗られた軌跡を支え、ともに成し遂げることこそが自分の役目なのだと彼は信じて疑わなかった。


(――だが、もう時間がない)


 日に日に体調が悪化していることは彼自身もよくわかっていた。このままでは国内平定にも間に合わない。唇を噛み、彼は赤く染まった布を握りしめる。

 焦燥感で痛みすら鈍くなり始めたその時、背後から突然声が上がった。


「あんた今、もしかして吐血した?」


 彼の不意を突いたのは、ここにいるはずのないミリアだった。彼はそっと血に染まった布を懐にねじ込んだ。


「……何の話ですか」

「とぼけても無駄。口元にうっすら血が残ってる」


 彼女の指摘にトゥレンは眉をひそめる。


「なぜあなたがここにいるのです? 研究室にいるはずでは?」


 袖口で口元をさっと拭いながら冷たくあしらったが、ミリアはひるみもしなかった。


「研究のために必要な薬草を摘みに来てたんだけど。あんたが自分で許可したの、もう忘れたの?」


 トゥレンは自分の過去の言動を悔いた。確かに以前、許可していた――疲労と吐血で完全に忘れていたが。


「覗き見とはあまり褒められた趣味ではありませんね」


 悔し紛れにそう返すと、ミリアはまたしても投げられた嫌味に目を吊り上げた。


「私が先に来てたのに、あんたが勝手に独り言つぶやいて血吐いてただけなんだけど?」


 トゥレンの反論を事実で封じて、ミリアは注意深く彼を見つめた。

 そして、溜息混じりに診断を下す。


「胃腸がだいぶ弱ってるわね。眠れなくて睡眠薬の代わりに酒でも飲んでるんじゃない? 空腹時に飲むと余計悪化するよ。代わりにカミツレを煎じて飲むようにしなさい」


 言い当てられたことに驚きよりも居心地の悪さを感じ、トゥレンはさらに冷たく返す。


「あなたには『燃える水』の製造は依頼しましたが、診療まで頼んだ覚えはありません」


 侍医でもないのに余計な口出しをするなと言っているのは、ミリアにも充分伝わった。

 正直なところ、彼女にとっても喜んで治したい相手ではない。それでも彼女は曲げられない信念があった。


「……私の父が最後に往診に行ったのは、ヴァルクレウスの貴族の屋敷だった。そこから帰って来た日に街は消えた。助けた国の人間に殺されるなんて思いもしなかっただろうけどね」


 だが、そんな彼女の吐露も冷徹な補佐官には届かなかった。


「つまり我々を恨んでいると?」

「そんな話はしてないでしょ! まだわからないの!? 父は最後まで医者だったし、私も父を尊敬してる。だから相手が誰だろうと病人を見たら放っておけないの!」


 これ以上話しても無駄と悟ってか、ミリアは最終診断を宣告した。


「何だか深刻そうな顔してるけど、あんたのそれは適切な治療をすれば別に死ぬような病気じゃないよ。それよりさっさと寝ることだね」


 そう言い捨てると、彼女は手にしていた薬草の束をトゥレンに押しつけて足早に歩み去った。

 その小さな背を困惑したまま見送って、トゥレンは手元の薬草に視線を落とした。


 甘酸っぱい香りをふわりと放つ、白い小花。

 それは、彼女が煎じて飲めと告げた、カミツレの束だった。

トゥレン、ついに吐血!

とはいえ、すぐには死ぬようなことはないらしいです。

「適切な治療をすれば」

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