第七章 鉄の軍団⑦
レックスが気を取り直して軍議を再開しようとしたその時、天幕の外がにわかに慌ただしくなった。
「――何事か!?」
真っ先に立ち上がり、鋭く尋ねたのはセリオだった。
「お気をつけください! 敵襲です!」
天幕の外から叫ぶユリウスの声には、緊張が走っていた。
すでに周囲は浮足立つ兵たちの怒声と足音が響き渡り、瞬く間に混乱の渦と化していた。そして天幕の中にまで、例の煙が漂い始めてくる。
レックスは無言で立ち上がり、足早に天幕を出ようとした。総司令たる彼としては当然の行動ではあったが、今は普段とあまりに状況が異なる。セリオは慌てて主君を制止した。
「殿下、お戻りください! 危険です!」
「ここにいてどうすると言うのだ?」
レックスは不機嫌を極めた目つきでセリオを見やる。冷たい灰色の視線に射貫かれても、セリオは怯えず敢然と反対する。
「外は煙に覆われています! 今は出てはなりません!」
実際、すでに天幕の中にまで煙は侵入し始めている。迂闊に外に出れば、怪しい薬物混じりの煙を吸い込んでしまうかもしれない。セリオとしては、自分の命に代えても主君をそのような事態から守らねばならなかった。
ミリアの方も天幕の外で警護を続けるユリウスに鋭く指示を飛ばす。
「ユリウス! あんたも煙を吸っちゃ駄目!」
そう叫ぶと、ミリアは手持ちの布を割き、湯桶に浸して絞り始めた。それを複数用意すると、彼女はその場の人員に手早く配る。
「ほら、みんなこれを! 鼻と口をこの布で覆って!」
濡れた布で完全に煙を防げるわけではないが、少なくとも無防備な状態よりははるかにましである。皆、文句も言わずに素直に布を顔に巻く。
結果、まるで全員盗賊の一味のような姿になったが、今は背に腹は代えられない。準備を整えたところで再び外へ出ようとするレックスとは対照的に、アウレリアは青ざめたまま小刻みに体を震わせることしかできなかった。
離宮で暮らした十一年間、彼女は鳥籠の中でかりそめの平和を享受していた。
国が滅び、逃亡中も、常に危険はユリウスが事前に取り除いてくれていた。
だが、今は個人の力だけではどうにもできない危険がすぐそばまで迫っている。初めての恐怖を覚え、彼女は懸命に声を殺してただじっとうずくまることしかできなかったのだ。
そんな震える聖女の体を、ミリアは両腕で抱きしめる。
「アウレリア、大丈夫だから落ち着いて。あまり息をしないように」
緊張と恐怖で呼吸が荒くなれば、それだけ煙を吸い込んでしまう。心だけでなく体を守るためにも、ミリアはアウレリアの背をさすって息を整えさせようとする。
すると、突如として仮本陣の天幕に火矢が撃ち込まれた。
恐らくは矢だけではない。可燃性の燃料とともに投げ入れられ、天幕の布から火の手が上がる。
外へ出ようとしていたレックスも、これには虚を突かれた。彼が足を止め、振り返ろうとした瞬間、火のついた天幕が背後から切り裂かれた。
そして同時に、一人の男が唸り声を上げて飛び込んでくる。その姿は王国軍正規兵の兵装だったが、下半面が布で覆われ、顔はわからなかった。
殺意に満ちた敵が目の前に現れ、アウレリアは思わず悲鳴を上げた。
「――アウレリア様! ご無事ですか!?」
もはや天幕の外を守っている場合ではない。主の声に反応し、ユリウスは持ち場を離れて天幕の中へ駆けこんだ。
一方、セリオは瞬時に、イアスは音もなくレックスの前に出る。本来、聖女護衛のはずのイアスは、危急の時には当然のこと主君を優先させた。落ち着きなく走り回っていたテオも、この時ばかりは桶を投げ捨て、慌てて剣を抜こうとする。
瞬きするほどのごく短い間に、その場の全員が次に備えて身構える。
すると、
「冥府へ落ちろ!」
大声で叫び、男は足元に向かって小瓶を投げつけた。地面で割れた瓶から液体が飛び散り、同時に炎が吹き上がる。その勢いに思わず一歩後退するセリオたちの隙をついて、男はレックスに猛然と斬りかかった。
だが、レックスは決して油断などしていなかった。とうに抜いていた剣で男の斬撃を受け止め、手首を返し、力の差で相手を押し戻す。さらに間髪入れず、均衡を崩した男の首を一撃で刎ねようとした、その時――
「――待って! 殺さないで!」
数瞬前までは怯えて震えていたはずのアウレリアが、その場に響く声を張り上げて制止した。
なぜそんな声を出せたのか、彼女自身にもわからなかった。それほど必死で、自分でも理解できない衝動に駆られて叫んでいたのだ。
「なぜ止める?」
レックスは眉間の皺をより深く刻みながら、聖女に問う。その際にも決して隙は見せず、視線と剣先は敵に向けたまま微動だにしない。
それは、彼女の返答次第ですぐにも首を刎ねるという意思の表れだった。
いくら世事に疎いアウレリアでも、さすがにその意図はわかる。だからこそ彼女は慎重に言葉を選ぶ必要があった。
「だって……煙の情報を知りたいんでしょう? だったら、殺しちゃ駄目なんじゃないの?」
彼女が思わず止めたのは、そんな合理的な計算が真っ先に浮かんだからではない。本心では、目の前で人の命が奪われることが恐ろしかったのだ。
だが、この戦場で、明らかに殺意を持って攻めてきた敵を慈悲だけで殺すなと言うことは許されない。だからこそ彼女は軍人の理にも通じる言葉を探りながら話すしかなかったのだ。
またそれだけでなく、実際彼女にはもう一つ気になることがあった。
「それに……その人、何か言ってた……冥府って何?」
それは彼女がごく狭い世界で生きてきたからこそ、誰よりも敏感に察知した違和感だった。
唐突な質問に困惑する男たちを尻目に、彼女の疑問に応じたのはミリアだった。
「冥府へ落ちろ――つまり、死ねっていう意味だよ」
ミリアの言葉に、そこまで聞いていたレックスが苛立つ。
「それが何だと言うのだ」
殺し合いをする敵同士なら、その程度の罵声はごく当然の挨拶のようなものである。そんな言葉にいちいち反応するような戦士など存在しない。これ以上は聞くだけ無駄かとレックスが剣を握り直そうとすると、斬られる寸前の男が再び罵声を浴びせてきた。
「殺せ! 蛮人め!」
その言葉に誰よりも早く反応したのはミリアだった。
彼女はレックスが剣を振り下ろす前に男の懐へ近づき、いきなり乱暴にその覆面を剥ぎ取った。
「やっぱり。あんた、蛮族じゃないね。エピオナの人間でしょ?」
ダナオス川以北に住まう蛮族――グト族はおおむね顔の幅が広く、太い鼻筋と高い頬骨が特徴的な「野蛮」とされる民族である。だが、その覆面に隠れていた顔は縦に長く、通った鼻筋に深い眼窩――まさに「文明人」らしい相貌であった。
無論、それだけではセルディア人の特徴と大差はない。彼女が見分けたのは顔立ちに加え、その言語だった。
「蛮人ってのは、エピオナ人が他国の人間を侮辱する時に使う罵倒語なんだよ。蛮族が自然に口にするはずがない。当然セルディア人もね」
冥府も蛮人も、古典エピオナ語が生活に根付いた言葉である。使用者にとってはただの日常語のつもりでも、それが口をついて出てきたこと自体が、その出自を明確に示していた。
「我が軍から奪った兵装で陣内に潜み、混乱に乗じて暗殺を試みたというわけか。ずいぶんと小賢しい真似をするものだ」
レックスはそう吐き捨てた。恐らくは王国軍兵士の死体から剥ぎ取った兵装で擬態し、セルディア系の顔立ちを利用して本陣付近に近づいたのだろうと彼はすでに推測していた。普段の「鉄の軍団」であればそのような見落としはありえないが、薬物混じりの煙によって視界も思考も惑わされ、誰も侵入者に気づけなかったのだ。
ここまで敵に翻弄された事実が、いっそうレックスを苛立たせる。
敵の総大将から氷のような視線と刃を向けられても、エピオナ人らしき男は決して屈しなかった。
激しい怒りを大声に託し、喉が嗄れるほどの勢いで叫ぶ。
「貴様が東軍の頭目なのだろう!? 俺たちの街を焼いた仇を討って何が悪い!」
「――ふざけるな! エピオナを焼いたのは聖騎士団の仕業だ! 殿下は関係ない! 逆恨みもたいがいにしろ!」
普段は冷静なセリオが、主君を罵倒されて珍しくいきり立った。だが、男はそんな臣下の反論を嘲笑ってみせる。
「はっ、ふざけているのは貴様らだ! 聖騎士団だか何だか知らんが、東の人間には変わりないだろう!? 所詮、貴様らは同類の蛮人だ!」
今すぐ斬れと言わんばかりに、男は両手を広げて胸を差し出す。だが、レックスは構えたままの剣を振り下ろすことができなかった。
「……違う」
斬撃の代わりに出たのは、押し出すような小さなつぶやき。
「俺は……奴らとは違う……」
その声は次第に消えゆくように萎んでゆく。あまりの異常事態に、セリオは思わず主君を振り返った。
「殿下!? いかがなさいましたか!?」
レックスが力なく垂らした左腕からは、かすかに血が滴り落ちていた。
「殿下、お怪我を!?」
ずっとそばにいたはずなのに、負傷に気づかなかったとは。副官の役目を果たせなかったことがセリオをいっそう焦らせる。だが、その声は主君の耳には入っていないようだった。
「俺は――……」
レックスの声にはいつもの覇気がない。そしてつぶやきながら、彼の体はぐらりと揺れ、そのまま地面に倒れ伏した。
「殿下? 殿下!?」
セリオの悲鳴に近い呼びかけにも、レックスは目を固く閉じたまま答えることはなかった。
総司令、倒れる!
援軍に来て早々何をしているんだ!
というところで次回をお待ちくださいませ。




