第七章 鉄の軍団⑥
天幕の前では引き続きユリウスが見張り番を務めていた。
重症のバルナスは近くのヴィディア砦に搬送することもできず、また全軍の士気にも関わるため、ほとんどの人間は面会謝絶となっている。
だが、当然のこと全軍の将たる総司令は例外である。レックスが現れるとユリウスは無言で一礼して中に通す。そこまでは通常の情景だったが、天幕内に足を踏み入れた瞬間、レックスは混沌の極致を目の当たりにした。
「……これは何だ」
「いえ……私にも……」
主君の問いにセリオも困惑で返すしかなかった。それほど目の前の光景が異様だったのである。
まず、重傷で寝ていたはずのバルナスが上半身を裸に剥かれ、しかも目を閉じてぐったりしたまま体を起こされている。その背を支えるのが無言のイアス。その脇で女二人が甲斐甲斐しくお湯で絞った布で蒸し、湿布を貼り、天幕内をテオが落ち着きなくバタバタと右往左往していた。
実際に行われていたのは、体内から毒物排出を促進するための蒸気浴と、薬草を練り合わせた膏薬の塗布といったごく当たり前の手当だったが、もはや状況的には祖父の入浴介助をする孫たちの図であった。
その世話を受ける祖父役が、本来は軍内で最強と謳われる将軍なのだから、彼らが強烈な違和感を覚えるのも無理はなかった。
それでもレックスはすぐに思考を切り替えるべく、天幕の中央に腰を下ろした。
何事かと目で訴えるセリオに有無を言わせず、レックスはセリオにも座るよう促すと、おもむろに口を開いた。
「奴らは次にどう出てくると思うか」
まさかここで軍議を!? とセリオは思ったが、口には出せなかった。この主君が一度決めたことは、少なくともセリオの力でどうにかできるものではなかったのである。
「……恐らくはまた同じ戦法で我々の消耗を待つつもりではないかと。まずはあの厄介な煙をどうにかしないことには……」
「そうか」
短くそれだけ言うと、レックスは再び口を閉ざして考え込んだ。宿将バルナスも補佐官トゥレンも不在の今、軍の方針はレックス自ら決めねばならない。だが、そのためにはまだ材料が不足していた。
それを補うべく、彼は目を閉じたままのバルナスの方に視線を向けた。――正しくは、その治療者に。
「そこの医者の娘に訊きたいことがある」
「え? 私!?」
まさか総司令に下問されるとは思ってもいなかったミリアは、驚いて振り向いた。思わず取り落とした包帯を、隣のアウレリアがあたふたと拾い上げる。
そんな医療現場の様子など気にも留めず、レックスはさらに問う。
「人を惑わす香に、匂いのないものはあるか?」
「……殿下!?」
つい驚きの声を上げたのはセリオだった。突然、エピオナの医師に声をかけただけでも困惑していたのに、さらにその内容は彼の理解を超えていたのである。
匂いがなければ香ではないだろう。常識的に彼はそう考えたのだが、問われたミリアの方はすでにその意図を察していた。
「この国に出回ってる怪しい香のこと? あれは香そのものが人を惑わしてるわけじゃないんですよ。人の思考をおかしくさせてるのは、香の中に混ぜられた危険な薬なので」
一応は王族相手のため、ミリアの口調はやや丁寧だった。それでもあまり敬語らしくはないが、レックスは特に咎めなかった。それは無礼に寛容というより、その発言の内容に驚いていたためでもあった。
「薬だと……?」
「そう。恐らく芥子から採れた成分が中心の薬物。それ自体にも匂いはありますけど、もっと強い香で隠してるんですよ」
ミリアの言葉にレックスは愕然とする。
なぜなら彼らにとって、人を惑わす力は必ず香りを伴っていたからである。
皇后の操る怪しげな香――あれこそが国を病ませる元凶だと彼らは断じ、ゆえに軍では一切の香を禁じてきた。それなのに、実際には香自体は目くらましだったとしたら、彼らはただ敵の掌で踊らされてきたことになる。
「だとすると……その薬物を煙に混ぜてばら撒いたらどうなる?」
「広範囲だと効果は薄まるでしょうけど、体が重くなったり、頭がぼんやりしたりといった症状が出ると思いますよ」
そこまで聞くと、レックスは苦い顔のままセリオを振り返った。
「セリオ、あの煙幕はいつから焚かれている?」
「我々が現地に着いた時には常に焚かれておりました」
もはや疑いようもない。あの煙こそがこの異様な戦地の元凶だったのだとレックスは理解した。
いつもの精彩さを欠く兵、判断力の落ちる将、緻密な戦略と噛み合わない敵の胡乱な挙動――それらすべて、あの魔香に惑わされた人々とよく似た症状であった。
事前に聞いていた「敵は怪しげな魔術を使う」という噂は妄言ではなく、薬物による幻覚作用だったのだろうとレックスは合点した。
「煙を見分けられない以上、本当は焚かれている元を調べられればいいんだけどね」
バルナスの手当を続けながら、ミリアは溜息がちにふとつぶやいた。
空気中に広がる煙を採取して成分を調べることができない以上、その元凶を突き止めなければならない。とはいえこの混乱した戦況でそれを実行するのは至難の業ではあった。
すると、天幕内を落ち着きなく走り回って雑用をこなしていたテオが、急に割って入ってきた。
「あっ、俺いいこと思いついたんすけど!」
交換用の湯を張った桶を乱雑に地面に置いて、テオは叫んだ。
「はぁ?」
飛び散る湯飛沫に顔をしかめながらミリアが聞き返すと、テオは勢い込んで語った。
「聖女様にその煙を見てもらえばいいんじゃないんすか!? だって神の瞳はすべてを見抜くんでしょ!?」
テオの両眼は期待と興奮できらきらと輝いていた。何しろ幼い頃から伝承で聞かされてきた「神の瞳」が目の前にあるのだ。その奇蹟を目撃できるかもしれないとあれば、興奮するのも当然ではあった。
しかし、その期待はかえってアウレリアを消沈させることになった。
「……煙を見分けるのは無理だよ」
アウレリアは困ったようにそう返す。
「神の瞳」と持てはやされても、彼女自身がその力を正しく理解しているわけではないのだ。うまく説明できずにいると、テオは首を傾げてさらに尋ねた。
「えー、そうなんすか? じゃあ何なら見分けられるんすか?」
「……別に見分けてるわけじゃないんだよ。何となくわかるだけで。……みんなの役に立てれば良かったんだけど」
アウレリアは申し訳なさそうにそう答えるのが精一杯だった。
実際、王女だ聖女だと言われても、彼女自身にできることなどほぼ無に等しい。唯一の聖女の証である瞳も、こんな時に役立てることさえできないのだ。
自身の無力さに肩を落とす主の姿を、ユリウスは天幕の外から横目で見ていた。
実のところ、テオが無神経極まる発言をした瞬間、彼の手は思わず剣の柄にかかっていたのだ。さすがに総司令の軍議中に乱入するわけにもいかないため、何とか自制していたが、彼にとっては聞き捨てならない台詞だったのである。
神の瞳――その呪われた伝承のせいで主がどれだけ傷ついてきたか、ユリウスは痛いほど知っていたのだから。
だがそんなところへ、テオをさらに凌駕する無遠慮な言葉が投げ入れられた。
「別に構わん。初めから期待はしていない」
レックスの台詞は、夏場だというのにその場の空気を完全に凍らせた。
アウレリアは表情を強張らせ、ミリアは手を止め、テオは首を傾げ、イアスは黙っている。
天幕の外で聞いていたユリウスも、硬直したまま動けずにいた。
「あの、殿下……今のおっしゃりようは……」
セリオが青ざめたまま何とか場を取り繕おうとしたが、主君は素知らぬ顔で追い打ちをかける。
「何か問題があるのか」
これはもう駄目だとセリオは内心で匙を投げた。
本来こうした補佐は、総司令側近たる将軍と補佐官の仕事なのだ。もともと他人の情動理解に乏しい主君の情緒面での折衝など、セリオの手には大いに余る。
こんな時ばかりは普段実直でおとなしい彼も、戦地に来られない補佐官の乗り物酔い体質を恨めしく思うよりなかった。
セリオの気苦労は全部トゥレンのせいです(投げやり)




