第七章 鉄の軍団②
トゥレンの疲労は日増しに増大し、減る未来が見えなかった。
「なぜこのようなことに……」
そうつぶやいたところで事態が好転するはずもない。それでも愚痴らずにはいられなかったのである。
北の蛮族――グト族と称する異民族が、ダナオス川を渡って北方国境を侵したという急報を受けた時から予兆はあった。
これが川幅の最も狭いヴィディア付近の渡河ならば歴史上何度も起きており、いつもの行動と読むことはできた。しかし今回は川幅の広い中流域を越えてきているのである。蛮族に突然文明が生えるはずもなく、そうなると何者かが渡河の知恵を授けたということになる。
(――いったい、何者が?)
彼ら王国軍と目下争っている皇后配下の聖騎士団は外征経験がなく、渡河の技術など指導できない。周辺国はと言えば、統一王国時代にほとんどの国を併呑してしまったため、現在は敵対国がほぼ存在していない。ならば、ヴァルクレウスと国境を接する蛮族に、わざわざ侵攻の手引きをしたのは何者なのか。
ただちに斥候を各地に放ち、後手ではあってもできる限りのことは尽くした。ひとまずあとは宿将バルナスに任せておけば安心だろうと思っていた矢先のことである。
――バルナス、重傷。
その凶報がヴァルディス駐屯地に激震を走らせたのだった。
「負傷ではなく本当に重傷なのですか?」
報告してきた兵士に、トゥレンはつい念を押すように尋ねた。それほどその内容が彼にとっても信じがたかった。バルナスは長年前線に立ち続けてきたが、深手を負うことは今までなかったのである。
「それが……その、敵は怪しげな魔術を使うとのことで……」
「いったいいつから我が軍は、そのような妄言を振りまく俗物にまで落ちぶれたのですか?」
言い淀む兵士にトゥレンは冷たい眼光を突き刺した。このような緊急時に魔術などという戯言を口にするなど、とうてい許せるはずもなかった。しかし、兵士は慌てて弁明する。
「で、ですが、敵は目の前から姿をくらまし、我が軍を惑わし、さらには未知の毒まで使用しているそうです!」
「未知の毒? では、バルナス将軍も……?」
「その通りです。受けた矢傷自体は浅かったものの、毒が体に回り非常に危険な状態です」
凶報がさらに進化した。その事実はトゥレンをさらに打ちのめした。
蛮族よりは進んだ文明と言っても、彼らの医術では毒を特定することも、それに合わせて適切な解毒薬を作ることもいまだ不可能である。
そこへ未知の毒と思われる攻撃を受けたら最後、あとは負傷者の体力と抵抗力を信じ、神に祈ることしかできない。それがよりによってレックスの右腕たる宿将バルナスの身に降りかかるなど、トゥレンにしてみれば誤算としか言いようがなかった。
青ざめた顔でふらふらと執務室を出たところで、トゥレンはさらに心労を追加する事態に陥った。
「殿下、そのいでたちは……」
ちょうど執務室を訪れようとしていた主君と彼は鉢合わせた。そして、その姿に絶句した。
深紅に裏打ちされた漆黒のマントに黒革の鎧――レックスは戦場と変わらぬ王国軍総司令の軍装に身を包んでいたのである。
「バルナスが倒れたそうだな。だから俺が出る」
まるで当然とでも言うような口ぶりでレックスは答える。
「バルナス将軍の代理は副官のセリオ殿がおられます! 殿下自らが向かわれるなど――」
「もしバルナスを失い、蛮族の暴虐まで許したら、皇后どころではないだろう。まずは蛮族どもを殲滅する」
そう告げる灰色の瞳には、何物にも揺るがぬ決意の色が浮かんでいた。
こうなったら主君が決して引かないことをトゥレンは知っている。もはや止めることは不可能だった。
「……承知いたしました。ただし、随行員についてはこちらで手配させていただきます」
「あとは任せる」
それだけ言うとレックスは踵を返し、足早に厩舎の方へと向かっていった。
その後すぐ、トゥレンが訪れたのは兵営の外れにある一角だった。もとはほとんど使われていない休憩室だったのを片付けさせ、今は軍の研究室となっている。
「例の水の製造は順調ですか?」
疲れた顔のまま、トゥレンは部屋の主に尋ねた。
「まあ、まだ少ししかできてないけどね」
ミリアはトゥレンとの密かな同盟を結んで以降、ほとんどこの研究室にこもりきりだった。まずは必要な器具や材料を用意させ、一通り揃うと『燃える水』の製造に明け暮れていたのだ。
特に蛮族侵攻の報を聞いてからは、必要になるかもしれないと彼女はさらに急いで生産量を増やそうとしていた。
「それで何の用? もっと欲しいなら作業員増やしてくれない?」
「いえ、そうではなく、今回はあなたにお願いがあって来ました」
トゥレンは今起きている蛮族侵攻の不穏な戦況と、バルナスが未知の毒に倒れたことを掻い摘んで説明した。
「ふうん、未知の毒ねえ」
「ですので、あなたにはその毒を受けたバルナス将軍の治療および毒物の調査のため、戦場へ向かっていただきたいのです」
その言葉に、ミリアは少々意地の悪い質問を投げ返した。
「お願いと言いつつ、私に拒否権はないんじゃないの?」
だが、トゥレンもその程度の嫌味に屈するような男ではない。
「あなたの境遇に最適な選択をしていただければ結構です」
より強い嫌味で返され、ミリアはつい腹を立てる。
「あんたは嫌味を言わないと死ぬ病気なわけ!? まあ、重傷者がいるって言うなら当然行くけどさ。ただ――」
彼女がちらりと視線を向けた机の向こうから、トゥレンは予想もしない声を聞くはめになった。
「ミリアが行くなら私も行く!」
トゥレンは口を半開きにしたまま硬直した。何が起きたのか把握するのに数秒かけてから、彼は思わず裏返った声で叫んだ。
「はあ!? アウレリア殿!? なぜここに!?」
トゥレンはこの話をアウレリアに聞かせる気など欠片もなかった。情報を遮断してさっさとミリアを戦場に送り、聖女の抗議など無視するつもりだったのである。
それなのに、いた。
まさかの本人の前ですべて聞かれてしまうとは。
「何言ってんの、最初からいたでしょ。それすら気づかないくらい疲れてるわけ?」
ミリアは呆れたように言い放った。
実際、アウレリアはトゥレンが入室する前から存在していたのである。ただし、彼女が酒精の蒸留作業を面白がって、抽出液の雫がポタポタ落ちるのを黙って見つめていたのがトゥレンには不運だった。あまりに気配がなかったことと、トゥレン本人の極度の疲労が、彼の認知を妨げたのである。
「私に聞かれたくなかったの?」
アウレリアから不服そうに問われると、トゥレンはややぎこちなく応じた。
「いえ……その、それよりなぜあなたまで戦場へ行くなどと……」
「そんなの当たり前でしょう? ミリア一人を危ないところへ行かせられないからよ」
さも当然とばかりに言い放つ聖女に、トゥレンはつい声を荒げてしまった。
「あなたが行かれたところで危険が減るわけではありません!」
「でも、私にはちゃんと護衛がつくんでしょう? 私のそばにいる限り、ミリアの危険は減るはずよ。ミリア一人で行ったら、同じくらい厳重に守ってくれるの?」
曇りなき黄金の瞳にまっすぐ見つめられ、トゥレンは一瞬言葉に詰まった。神の瞳の前に下手な言い逃れはできないと彼は知っていたのだ。
実際、ミリアは貴重な技術を持つエピオナ医師の生き残りではあるが、全く替えがきかないわけではない。政治的には何の価値もない平民に過ぎず、せいぜい護衛を一人付けられるかどうかだろう。重要な駒である聖女と同列に扱うわけにはいかない。
聖女のそばにいれば生存率が高くなるというのは紛れもない事実。だからこそ、トゥレンはおいそれと認めるわけにはいかなかった。
「それに、ミリア一人で治療するのは大変でしょう? 前にミリアが手術した時みたいに、私にできることがあれば手伝いたい。人を救う力になりたいの」
しかし、アウレリアはすでに戦地へ行く気満々だった。そもそも彼女はトゥレンの許可など求めていなかったのである。
「それじゃあ包帯の巻き方から教えないとね」
「うん、私頑張るからね」
女二人は和気藹々《わきあいあい》と看護の方法について話し始める。すでに無粋な男など視界に入ってもいないようだった。
(――なぜ、このようなことに)
トゥレンは天を仰いだ。なぜこうも次々と予測を裏切る事態ばかりが続くのだと。
力なく退室すると、扉の外にはイアスが静かに立っていた。研究室が狭いため、護衛たちはイアスが扉前、ユリウスとテオが窓外で待機していたのである。
もともと気配の希薄なイアスが扉の番人をしていたせいで、心身の衰弱したトゥレンはその存在を見落としていたらしい。見えていれば聖女の滞在にも気づけていただろうに――自分の配置した人事を恨めしく思いながら、彼は胃痛を抱えて回廊を歩み去った。
トゥレン、疲労が限界まで来て、ついに現場確認を怠るの巻。
ドモ〇ルンリンクルみたいにポタポタ落ちるアレ、ずっと見ていたら癖になって、気配を消して見続けていたようです、アウレリア。




