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第9話 酒場

港に着いてから数日。

カイルはアステリアでの仕事に追われていた。

船の状態を確認し、浅瀬の位置を覚え、港の船員たちからこの海域の潮の流れを聞く。

王都から来た船は、交易の準備や補給のため、しばらく港に留まることになっていた。

カイルにとっては、いつもの仕事の延長だった。


――そのはずだった。


けれど、港を歩いていると、ふと視線が人混みの中を探していることがある。


栗色の髪。

日に焼けた肌。

海風にさらされた指先。

あの日、船を見上げていた女性。


「……」


カイルは足を止めた。

自分でも何をしているのか分からない。

船員たちの中にいるわけではない。

商人でもない。

港の女たちでもない。


ただ、あの女性の姿を探している。

見つけたい、とそう思っている。


「……何やってんだ、俺」

小さく呟いて、カイルは視線を逸らした。

別に、もう一度会わなければならない理由などない。

あの時交わした言葉だって、ほんのわずかだった。


「良い船ね」


そう言われた。

それだけだ。

けれど、彼女の笑顔が、妙に記憶に残っていた。

船のことを話してる時の、少しだけ楽しそうな目。

自分の話を聞く姿勢。

船そのものを見る目。

身分や値段ではなく、本当に船を見ていた、

それが、なぜか気になった。


―翌日。

カイルは港へ出た。

船の修理を確認する。

船員に指示を出す。

新しい帆の寸法を測る。

忙しく動いている間は、女性のことなど忘れていた。


けれど、昼過ぎ。


港の向こうを、栗色の髪が横切ったような気がした。

カイルは反射的に顔を上げた。

違う。

別の女性だった。


「……」


思わず苦笑する。

自分でも呆れる。

たった一度会っただけの相手を、どうしてこんなにも気にしているのか。

しかも、名前すら知らない。

それなのに、翌日も、その次の日も

港を歩くたびに、無意識に彼女を探してしまう。

船員たちと話している最中でさえ、ふと港の入り口を見る。

商人が来れば、その後ろを確認する。

新しい船が入れば、乗っている人間を眺める。

そのたびに、自分が誰を探しているのかを思い出してしまう。


そして、少しだけ可笑しくなる。


――俺はあの女性にもう一度会いたいらしい。


ようやく、カイルはそれを認めた。

理由はわからない。

ただ、もう一度話してみたい。

それだけだった。


―アステリアの酒場。

仕事を終えたカイルは、港の酒場へ入った。

アステリアの酒場は、王都のものとは少し違っていた。

飾り気がない。

けれど、海で働く者たちが一日の終わりに集まる場所として、妙に居心地が良かった。


カイルは空いている席に腰を下ろした。

酒を注文しようとして、ふと、聞き覚えのある声がした。


「おう。こんなところにいたのか」


振り返る。

トーマスだった。


「トーマス」

「数日ぶりだな」


トーマスは向かいの席に腰を下ろした。


「船の方はどうだ?」

「問題ない。ここの船員は腕がいい」

「そうだろう」


トーマスは満足そうに笑う。

二人はしばらく船の話をした。


港の深水。

潮の流れ。

修理中の船。

冬に向けた風の変化。

カイルは話をしながら、ふと先日の女性を思い出した。

そして、気づけば口にしていた。


「……なぁ、トーマス」

「ん?」

「この島には、船に詳しい女がいるのか?」


トーマスが眉を上げる。

「女?」

「この前、港で会ったんだ」


カイルは少し考えながら続けた。

「栗色の髪で、日に焼けていて……」

そこまで言って、

「船を見て、良い船だと言った」


トーマスの表情が変わった、ほんの少し。

けれど、カイルは見逃さなかった。


「……ああ」

「知っているのか?」


トーマスは酒を一口飲んだ。

そして、何でもないことのように言った。


「ダイアナだ」

「……ダイアナ?」

「アステリアの頭領だよ」


カイルの手が止まった。


「……あの女性が?」

「ああ」


トーマスは不思議そうにカイルを見る。

「お前、知らなかったのか?」


カイルは答えなかった。

頭の中で、港で見た彼女の姿が、もう一度浮かぶ。


船を見上げていた。

海を見ていた。

自分の話を興味深そうに聞いていた。


あの女性が。

アステリアの頭領。


「……そうだったのか」

思わず、低く呟く。

トーマスは笑った。

「何だ。気になってたのか?」

「……」


カイルは酒に口をつけた。

けれど、もう味がよくわからなかった。


頭領。

この島を治める人間。

七つの氏族をまとめ、港を守り、アステリアの未来を背負っている女性。

そんな人には、とても見えなかった。


いや、違う。

見えなかったのではない。

自分が彼女を「頭領」として見ていなかっただけだ。

ただ一人の女性として、海を見て、船を見て、少しだけ笑った女性として。

だからこそ、気になったのかもしれない。


カイルは、酒場の窓から港を見た。

夕暮れの海。

灯り始めた港。


そして、そのどこかにいるはずの、ダイアナ。

名前を知っただけなのに、さっきまでより、ずっと彼女が近くなった気がした。

そして同時に、これまでとは違う距離にいる人なのだと初めて思った。

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