第10話 七氏族
ダイアナとの交渉がまとまった翌日。
レオンは、再び砦を訪れていた。
王都との交易条件については、すでに大筋で合意している。
港の使用。
商船の護衛。
交易品の関税。
そして、王都がアステリアの内政に干渉しないこと。
最後の条件だけは、ダイアナが一歩も譲らなかった。
その交渉を終えた時、レオンは思った。
この女性は、交渉そのものよりも、その先を見ている。
自分との約束を成立させるだけではない。
それを七氏族が受け入れられる形にしなければ意味がないのだ。
―その日の午後。
レオンは砦の奥にある小さな会議室へ案内された。
大広間ではない。
窓の外には海があり、机には古い海図が広げられている。
ここでは、王都のような華やかな儀礼は必要ないらしい。
必要なのは、
誰が何を欲し
誰が何を恐れ
どこまで譲れるのか
それだけだ。
部屋には七人の氏族長がいた。
北のアルヴェイン家の族長は、白髪を後ろで束ねた瘦身の老人だった。
冷たい青い瞳をしている。
グレンモア家は、大柄な男だった。鍛冶仕事で鍛えられた太い腕と、火傷の跡が残る手。
ハイランド家は、赤茶色の短髪を持つ女。日に焼けた顔と鋭い灰色の瞳が印象的。
ローウェン家は細身の男で、黒髪と緑の瞳を持つ。表情がほとんど動かない。
ベルフォード家は五十ほどの女性。穏やかな顔立ちをしているが、
その目だけは油断なく周囲を見ている。
カルディア家は三十代後半の男。金茶の髪に青い瞳。商人らしい洗練された
服装をしていた。
最後がマーレン家。灰色の髪に日に焼けた肌。
長年、海で働いてきた男の身体だった。
レオンは七人を見渡した。
――一枚岩ではない。
それどころか、だれもが自分の土地を見ている。
アルヴェインは北の冬を。
グレンモアは鉱山を。
ハイランドは防衛を。
ローウェンは森を。
ベルフォードは農地を。
カルディアは交易を。
マーレンは港と船を。
それぞれが「アステリアの未来」を語る。
だが、その未来は同じ形をしていない。
「王都との交易について」
カルディアが口を開いた。
「私は賛成です」
すぐにハイランドが反応する。
「港を開けば、王都の商人だけではなく、その後ろにいる
貴族も入ってくる」
「だから条件をつけるのでしょう」
「条件が守られる保証は?」
「守る仕組みを作ればいい」
「その仕組みを誰が管理するんだ?」
今度はマーレンが口を挟んだ。
「港を知らない者に任せるつもりはない」
「港のことだけ考えているから、そう言えるのだ」
カルディアが返す。
レオンは黙って見ていた。
王都なら、ここで誰かが権威を持ち出す。
しかし、ここでは違う。
七人とも、簡単には退かない。
自分たちの民を背負っているからだ。
だから、ダイアナは急がなかった。
彼女は七人の言葉を遮らない、反論もしない。
ただ、時折、短い質問を挟む。
「カルディアは、どれだけの交易量を想定しているの?」
「現在の二倍です」
「マーレンは?」
「船団の負担を考えれば、一・五倍が限界です」
「アルヴェインは、冬季に何日分の備蓄が必要?」
「最低でも四十日」
「ローウェンは、木材の輸出をどこまで許せる?」
「今の三分の二まで」
それぞれの数字が並ぶ。
レオンは気づいた。
ダイアナは、意見をまとめようとしているのではない。
まず、誰が何を恐れているのかを、数字に変えている。
感情を条件に変える。
不満を要求に変える。
要求を調整可能なものへ変える。
その手際は、外交交渉に慣れたレオンにも興味深かった。
やがて、カルディアが言った。
「では、頭領はどれを採用されるのですか?」
ダイアナは首を横に振った。
「まだ決めないわ」
カルディアがわずかに眉を上げる。
「では、何のために聞いているのです?」
「皆が何を守ろうとしているのかを知るためよ」
静かな声だった。
「それがわからなければ、どんな案を作っても誰かが損をする」
「損をする者がでるのは、仕方のないことでは?」
ベルフォードが口を挟んだ。
「すべてを満たすことなどできません」
「ええ」
ダイアナは頷いた。
「だから、損をする者を一つの氏族に固定しない」
その言葉に、七人の視線が動いた。
「交易が増えれば、カルディアは利益を得る。
でも港の負担はマーレンが背負う」
ダイアナは続ける。
「木材を輸出すれば、商人は利益を得る。
でも森を守るローウェンが負担する」
「だから、利益と負担を同じ場所に集めない」
レオンは思わず彼女を見た。
これは、王都の政治でも使われる考え方だった。
しかし、王都では権力を持つ者が配分を決める。
ダイアナは違う。
「カルディアが交易枠を増やす代わりに、港の維持費を負担する」
「マーレンは船団の修繕費を一部負担してもらう」
「ローウェンの木材輸出には上限を設ける。その代わり、輸出税の
一部を森の維持に回す」
「北部の備蓄は南港の倉庫を使う。ただし輸送費は各氏族で分担する」
一つ。
また一つ。
条件が組み替えられていく。
誰かが得をすれば、別の場所で負担を引き受ける。
それでも、
「それではカルディアが損をする」
「交易量は増えるわ」
「利益率が下がります」
「島全体の利益は増える」
「私の商人たちが納得しないでしょう」
ダイアナはカルディアを見た。
「では、商人たちに説明して」
「……」
「アステリアで商売を続けたいなら、アステリアの海と土地を
守ることにも責任を持ってもらう」
カルディアはしばらく黙った。
やがて、
「分かりました」
短い返事だった。
だが、その声には完全な納得ではなく計算の末の了承があった。
レオンは、その表情を見逃さなかった。
この男は、次の交渉を考えている。
おそらくダイアナも分かっている。
それでも。
今は、それでいいのだ。
日が傾き始めても、話し合いは終わらなかった。
一度まとまりかけた案が、別の問題で崩れる。
ベルフォードとアルヴェインが食糧輸送を巡って対立し、
ハイランドとマーレンが防衛船の配置で衝突する。
ローウェンは最後まで木材輸出に慎重だった。
そのたびに、ダイアナは話を戻した。
「そこは今日決めなくていい」
「ですが、重要な問題です」
「だからこそ、急いで決めない」
「では、いつ?」
「次の会議で」
彼女は決して苛立たなかった。
疲れているはずなのに。
誰かが同じことを何度言っても、顔をしかめない、声を荒げない。
ただ、譲れないところだけは、静かに線を引く。
やがて、最初の合意がまとまった。
完全な合意ではない。
誰もが満足しているわけではない。
だが、誰もが、自分の氏族に持ち帰れるだけのものを得ていた。
「今日はここまでにしましょう」
反対する者はいなかった。
七人の氏族長が、順に席を立つ。
レオンはその背中を見送った。
誰も笑っていない。
誰も勝利した顔をしていない。
けれど、誰も怒っていない。
それだけで、十分なのだろう。
―全員が去ったあと
部屋に残ったのはダイアナとレオン、エドガーだけだった。
ダイアナは椅子の背にもたれた。
「……疲れた」
「でしょうね」
エドガーが答える。
ダイアナはレオンを見る。
「ヴァレンティス卿は?」
「興味深いものでした」
「面白かった?」
「王都の会議とは、まったく違います」
レオンは海図へ目を落とした。
「王都では、最後に誰かが決めます」
「ここでは?」
「誰もが、自分で決めたと思わなければ動かない」
ダイアナは少し笑った。
「だから時間がかかるのよ」
「ですが」
レオンは彼女を見る。
「あなたは、それを嫌っていない」
ダイアナは一瞬黙った。
「嫌なら、頭領は務まらないでしょう?」
その言葉に、レオンは静かに笑った。
彼女は七氏族の上に立っているのではない。
七つの異なる意思の間に立っている。
だからこそ、相手を負かすのではなく、譲れる場所を探し、何度でも
話し合う。
それは、王都で権力を使って会議を終わらせることより
はるかに根気のいる仕事だった。
レオンは、初めて理解した。
この島で「頭領」と呼ばれることが単なる地位ではないのだと。
海を知ること。
人を知ること。
そして、人と人の間に立ち続けること。
ダイアナは、それを当然のようにやっている。
レオンは窓の外へ視線を向けた。
夕暮れの海。
静かな波。
その向こうに、アステリアの七つの土地がある。
ダイアナは王都との交渉相手でしかなかった。
今は、それだけではない。
レオンの中で、彼女を見る目が変わり始めていた。




