第11話 夜の海
会議が終わった頃には、すっかり日が沈んでいた。
ダイアナは誰にも声をかけずに砦を離れた。
今日は疲れたていた。
王都から使節を迎えてから、慌ただしい日々が続いていた。
交易。
港の使用。
海域の安全。
アステリアの独立。
それぞれの利害が絡み合い、一つの判断をするだけでも、
何度も考えなければならなかった。
今日の会議も、最後まで緊張が解けなかった。
けれど、終わってみれば、大きな問題を残すことなく、
合意案をまとめることができた。
ダイアナは海辺へ向かう坂道を歩きながら、
そのことを考えていた。
そして、ふと思い出す。
会議の途中。
意見がぶつかり、話が一度、行き詰まりかけた時、レオンが差し出した一枚の書類。
そこには、王都側だけではなく、アステリアにとっても
利益となる条件が整理されていた。
交易量を増やす、けれど、港の自由は守る。
王都にも利益を与える、けれど、アステリアが一方的に
縛られることはない。
それを見た時、ダイアナは、自分の考えていた方向とほとんど
同じであることに気づいた。
レオンは王都から派遣された使節だった。
それなのに、彼は王都の利益だけを考えていたわけではなかった。
アステリアが何を守りたいのか、
何を譲れないと思っているのか。
それを理解したうえで、両方が受け入れられる形を探していた。
有能なのは、最初から分かっていた。
話し方は穏やかで、相手の言葉を遮らない。
けれど、必要なところでは一歩も引かない。
そして、今日、初めて気づいた。
この人には、優しさがある。
相手のために、自分が少し遠回りすることを惜しまない優しさ。
ダイアナは、海辺に着くと足を止めた。
夜の海は、昼間とはまるで違っていた。
黒い水面。
月明りを受けて、波の一つ一つが淡く光っている。
港の灯りも、ここまで来れば小さい。
遠くで、波が岩に当たる音がする。
静かだった。
ダイアナは、海を見つめた。
今日一日のことが、少しずつ遠ざかっていく。
頭領として考えることも、
会議で交わされた言葉も、
誰かの期待も。
今だけは、考えなくていい。
ただ、海を見ていたかった。
その少し離れた場所で、一人の男が足を止めた。
カイルだった。
港へ戻る途中だった。
夜の海辺に、ダイアナが立っている。
いつもなら、誰かと話している。
そんな彼女が、今日は一人だった。
カイルは、しばらく動かなかった。
何かあったのだろうか、声をかけるべきか。
けれど、一人で海を見ている彼女を見ていると、
邪魔をしてはいけないような気もした。
カイルが迷っていると、ダイアナが、海を見たまま口を開いた。
「静かね」
振り返りもしない。
けれど、そこに、カイルがいることを知っている声だった。
「そうだな」
短く答える。
カイルはそれ以上近づかなかった。
ダイアナから少し離れた場所で海を眺める。
二人の間には、少し距離があった。
それでも、不思議と遠くは感じなかった。
会話は続かなかった。
波の音だけがする。
風が髪を揺らす。
遠くで、港の鐘が一度だけ鳴った。
ダイアナは、カイルをちらりと見た。
何かを聞こうとしない。
疲れているのかとも尋ねることもない。
ただ、そこにいる。
それが、今の自分に必要なことだと、
カイルは、気づいているのかもしれない。
ダイアナは、少しだけ肩の力を抜いた。
いつもなら、一人になったところで、すぐに頭領としての
自分へ戻ってしまう。
けれど、今夜は誰かがそばにいても
何も話さなくていい。
そのことが、妙に心地良かった。
「………」
ダイアナは再び海を見る。
今日の会議のことを思い返す。
レオンの言葉、その判断。
そして、海を見ながら、ふと思った。
自分の周りには、思っていたより、ずっと多くの人がいる。
支えてくれる人。
意見をくれる人。
守ろうとしてくれる人。
そして、何も言わず隣にいてくれる人。
夜は、静かに深まっていった。
「戻りましょうか」
ダイアナがカイルを見る。
二人で港へ向かう。
しばらく歩いたところで、ダイアナがふと思い出したように
口を開いた。
「そういえば」
カイルが見る。
「あなたの名前を知らないわ」
カイルは少し意外そうに彼女を見た。
王都から派遣された船の男。
海を良く知っている男。
それくらいしか知らない。
けれど、今夜、初めてその人が少しだけ近くなった気がした。
「カイル・ハーグレイブ」
静かに名乗る。
ダイアナは、その名前を心の中で一度繰り返した。
――カイル。
それから、少しだけ笑う。
「私は、ダイアナよ」
カイルは、ほんのわずかに目を細めた。
「知っている」
「そうね」
ダイアナも笑った。
「頭領だものね」
二人はまた歩き始める。
港の灯りが近づいてくる。
その明かりを見ながら、ダイアナが、ふと足を緩めた。
「今夜」
カイルが振り返る。
「二人で海を眺めるのも、悪くなかったわ」
それだけ言って、ダイアナは先に歩き出した。
カイルは、その背中を見つめた。
何かを答える必要はないと思った。
ただ、
「そうだな」
小さく呟いて、彼女の少し後ろを歩いた。
夜の海は、二人が離れていった後も
何も変わらず、静かに波打っていた。




