第12話 祝祭
レオンとカイルがアステリアへ派遣されてから、
季節が一つ変わろうとしていた。
夏の名残を残していた海風は、いつの間にか涼しさを帯びている。
朝夕には薄い霧が海面を覆い、丘の木々も少しずつ色を変え始めた。
―秋。
アステリアの港では、豊漁を願う祝祭が開かれる。
その日だけは、漁師も船大工も商人も仕事の手を止める。
港の柱には色鮮やかな布が結ばれ、アステリアの旗が風に揺れていた。
広場には屋台が並び、焼いた魚、燻製肉、香草を詰めた貝、蜂蜜を塗ったパン
が次々と運ばれてくる。大鍋では魚介の汁が煮込まれ、
潮の匂いに薪の煙と香草の香りが混じっていた。
太鼓が鳴る。
笛が重なる。
子どもたちが走り回る。
港は、普段とはまるで違う場所になっていた。
アステリアの祝祭は、豊漁だけを願う祭りではない。
今年も海が恵みを与えてくれたこと、海へ出たものが帰ってきたこと、
そして、来年もまた、この港に船が帰ってくること。
そんな願いを、島の人々は昔から祝ってきた。
―
「お嬢様、今日は仕事の話は禁止ですよ」
マリーに言われ、ダイアナは笑った。
「分かっているわ」
そう答えた五分後には、船大工と修繕の話をしている。
「それも仕事です」
「そうね……」
ダイアナは笑いながら、焼き立ての魚を頬張った。
熱かったらしく、少しだけ目を細める。
周囲から笑い声が上がった。
ダイアナも笑う。
今日は頭領の銀の留め具を身に着けていない。
深い青のドレス、髪には小さな花。
酒を勧められれば盃を受け、子どもに手を引かれれば
笑いながらついていく。
いつもの執務室にいる彼女とは、まるで違う。
二十六歳の女性。
故郷の祭りを、ただ楽しんでいる一人の島民だった。
広場の隅では、年配の女性たちが子どもたちを見守っている。
少し大きな子が、小さな子の手を引いて歩いている。
「来年は、あの子も踊れるでしょうね」
誰かが笑う。
「その頃には、もっと子どもが増えているさ」
別の声が返す。
「この島は、子どもが増えないと寂しいからな」
ダイアナは、その会話を聞きながら笑っていた。
けれど、ほんの一瞬だけ、その言葉が胸の奥に残った。
来年、
その先、
島が続いていくということ。
自分が頭領として守っているものは、今だけではない。
そんなことを、ぼんやりと思う。
けれど、次の瞬間には子どもに手を引かれていた。
「頭領、こっち!」
「はいはい」
ダイアナは笑って、輪の中へ入っていった。
―
レオンは、エドガーに連れ出されるようにして
祭りへ来ていた。
「今日くらいは仕事を休んでください」
「しかし、交渉資料が――」
「明日もできます」
「ですが」
「ダイアナ様からも、今日は仕事をしないようにと
言われています」
そこまで言われて、レオンも諦めた。
けれど、港へ来てから、彼は仕事のことを忘れたていた。
視線の先に、ダイアナがいる。
彼女は魚を食べて笑い、子どもたちと遊び、
島の老人と楽しそうに話している。
レオンは、知らず知らずのうちに、その姿を目で追っていた。
笑った時の目元。
誰かに呼ばれたときの振り向き方。
子どもに手を引かれたとき、自然に歩幅を合わせる仕草。
そんな些細なことばかりが目に付く。
頭領としてのダイアナなら、少しずつ分かってきた。
判断は早い。
人の話を良く聞く。
交渉では決して譲らない。
けれど、
この女性が何を好きなのか、
何をすると笑うのか、
それは、まだ知らない。
もっと知りたい、そう思った。
その感情が、外交官としての興味ではないことも。
レオンは、気づき始めていた。
―
カイルは船員たちに連れ出されていた。
「今日は仕事禁止ですよ!」
「俺は仕事なんかしていない」
「さっきまで船を見てたでしょう!」
「祭りが始まる前に終わらせたんだ」
笑い声の中で、カイルも酒を受け取る。
やがて、広場の中央で太鼓の音が変わった。
人が自然に輪を作る。
古くからアステリアに伝わる踊りだった。
男女を決めず、隣にいる者の手を取り、海の波のように、
ゆっくりと円を描く。
荒れる海。
穏やかな潮。
港へ戻る船。
そのすべてを思わせる動きが、踊りの中にあった。
ダイアナも輪の中へ入った。
カイルの動きが止まった。
髪が揺れる。
ドレスの裾が翻る。
ダイアナは隣の女性と手を取り合いながら笑っている。
一度、足を間違える。
隣の女性に笑われる。
ダイアナも笑う。
それから、何事もなかったように踊り続ける。
カイルは思わず笑った。
こんな顔をするんだ。
頭領ではなく、ただ、故郷の祭りを楽しんでいる女性がいる。
「カイルさん」
隣の船員が笑う。」
「見すぎですよ」
「……うるさい」
けれど、視線は戻らなかった。
彼女が楽しそうだから。
それだけで、胸の奥が温かくなる。
―踊りが終わった後。
ダイアナのもとへ、一人の若い母親が近づいてきた。
胸の中には、小さな赤ん坊がいる。
「頭領、抱いてみますか?」
「ええ。少しだけ」
ダイアナは戸惑いながら、赤ん坊を受け取った。
小さな身体。
柔らかな頬。
握られた小さな手。
「まあ……」
ダイアナの表情が柔らかくなる。
赤ん坊の指が、彼女の指を握った。
「元気な子ね」
「今年の春に生まれたんです」
母親が嬉しそうに笑う。
「来年には、歩いているでしょうね」
「きっとそうね」
ダイアナも笑う。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に、
ほんの小さな引っ掛かりが生まれた。
今年。
来年。
島では、当たり前のように時間が続いていく。
自分も、その未来を守る側にいる。
けれど、頭領として、未来を守ることと
自分自身が、その未来を生きることは同じではない。
一瞬だけ、そんな考えがよぎった。
ダイアナは赤ん坊を見つめる。
可愛い。
ただ、それだけだったはずなのに、少しだけ、胸がざわついた。
それを振り払うように、赤ん坊の頬を指先で撫でる。
「元気に育ってね」
母親へ返す。
「ありがとうございます」
母親は嬉しそうに頭を下げた。
その向こうで、アステリアの旗が秋風に揺れている。
その旗の下を、子どもたちが走っていく。
島は、今だけではなく、次の季節へ続いている。
ダイアナは、ほんの少しだけ遠くを見る目をした。
―
夕暮れ。
港の空が赤く染まる。
祭りはまだ続いていた。
音楽。
笑い声。
酒を酌み交わす声。
海へ出る者たちの歌。
そのすべてが、秋の港に重なっている。
レオンは、少し離れた場所からダイアナを見ていた。
さっき赤ん坊を抱いていた姿が、まだ目に残っている。
頭領としての責任だけではない。
彼女の人生。
その先に、どんな景色があるのか。
知りたい、そう思った。
一方、カイルは、楽しそうに笑うダイアナを見ていた。
そして、自分の中に生まれた感情を、もう誤魔化せないと思った。
彼女が笑っている。
それだけで嬉しい。
それだけで、もっと近くにいたいと思う。
二人の視線は、同じ女性へ向けられていた。
けれど、まだ、その思いを言葉にする者はいない。
ダイアナだけが、二人の視線にも、自分の胸に生まれた違和感にも、
まだ気づかないまま。
秋の祝祭は、夜へ向かって静かに深まっていった。




