第13話 光の道
祝祭の翌朝。
アステリアの港には、昨日までの賑わいがまだ少しだけ残っていた。
広場では屋台の片づけが続き、祭りのために掲げられていた旗も、少しずつ外されている。
それでも、港の人々は、いつもの朝よりどこか穏やかな顔をしていた。
祭りが終われば、また日常が戻ってくる。
船は海へ出る。
魚は運ばれる。
鍛冶場では火が焚かれる。
そして、夜になれば、アステリアにはもう一つの行事がある。
灯り流し。
祝祭の翌日に行われる、古くからの習わしだった。
ダイアナは、港の倉庫から運び出された灯り流しの準備を眺めて言った。
「今年も、この季節ね」
エドガーが頷く。
「はい。準備はほぼ整っています」
「流す場所は?」
「例年通りです」
ダイアナは海を見る。
朝の海は穏やかだった。
けれど、沖では波の形が少し違う。
「……少し潮が早いわ」
「私もそう思います」
エドガーが海図を開く。
「船員たちにも確認させています」
その時、港の向こうからカイルが歩いてきた。
昨日の祭りの片づけを手伝っていたらしい。
「カイル」
ダイアナが呼ぶ。
「今夜の灯り流し、船を出すでしょう?」
「ああ」
「潮はどう?」
カイルは海へ目を向けた。
少しの間、黙って波を見ている。
「昨日より東へ流れる」
「やっぱり」
「流す場所を少し西へずらした方がいい」
ダイアナは海図を覗き込んだ。
「ここ?」
「そう」
カイルが指を指す。
「この辺りなら、灯りが岩場へ寄りすぎない」
「分かったわ」
それだけの短いやり取りだった。
けれど、以前より、カイルに海のことを尋ねるのが自然になっている、
夜の海で時間を共有してから。
港で顔を合わせれば、以前より少しだけ相手を意識する。
それ以上ではない。
まだ、二人とも、それを言葉にすることはなかった。
「では、その場所で準備しておく」
「お願い」
カイルは頷き、船員たちのところへ戻っていった。
ダイアナは、その背中を一度だけ目で追った。
そして、すぐに海へ視線を戻した。
―昼前。
レオンは交易館で古い帳面をめくっていた。
昨夜の祭りで聞いた話が気になり、灯り流しの記録を探していたのだ。
数年前の風向き。
潮の流れ。
灯りを流した場所。
帰ってこなかった船員の名前。
そこには、アステリアの人々が何を願ってきたのかが、
淡々と残されていた。
レオンは一ページをめくった。
そして、ふと、手を止めた。
頭に浮かんだのは、昨夜のダイアナだった。
子どもたちと笑っていた。
島の人々と酒を飲み、音楽が始まれば、少し戸惑いながらも踊った。
頭領としての顔とは違う。
もっと柔らかく、もっと年相応の、一人の女性の顔だった。
レオンは、静かに目を伏せた。
これまで、自分が彼女に惹かれている理由は、尊敬なのだと思っていた。
聡明さ。
判断力。
人の話を聞く姿勢。
七氏族の意見をまとめる強さ。
彼女の仕事ぶりを知るほど、興味を持った。
けれど、昨日、彼女が笑っている姿を見た時、
胸の奥に生まれたものは、それだけではなかった。
もっと近くで見たい。
もっと彼女を知りたい。
仕事をしている時の顔だけではなく、
誰にも見せない表情まで知りたい。
そう思った。
そして、自分だけが知る表情があれば、いいと。
そんあことまで考えてしまった。
レオンは小さく息を吐いた。
「……恋慕、か」
声に出してみる、不思議なほど、静かな言葉だった。
けれど、その一言で、今までの自分の感情がすべて繋がった。
自分は、ダイアナを、一人の女性として見始めている。
レオンは苦笑した。
「参ったな」
それでも、不思議と嫌ではなかった。
―夕方。
港では、灯り流しの準備が整っていた。
島の人々が一つずつ灯りを受け取る。
子どもたちは大人の手を借りながら火を灯し、老人たちは古い灯りの布を直している。
ダイアナは、その様子を見ながら、レオンとカイルに声を掛けた。
「二人とも、今夜は灯り流しを見るでしょう?」
レオンが頷く。
「はい」
カイルも、
「ああ」
と答えた。
「アステリア独自のものだから、せっかくなら参加して欲しいの」
「どのような意味があるのですか?」
レオンが尋ねる。
ダイアナは少し考えた。
「海へ出た人が、無事に帰ってこられるように願うの」
そして、
「帰ってこられなかった人を忘れないためでもあるわ」
カイルは黙って海を見る。
レオンは、その言葉を静かに受け止めていた。
「では、私も一つ流してみても?」
「もちろん」
ダイアナは微笑んだ。
「カイルもね」
「分かった」
それだけ。
三人は、それぞれ別の場所へ散っていった。
島の行事だから、ただ、それだけの理由で。
―夜。
港の喧騒は消えていた。
昼間まであれほど人であふれていた場所に、静かな波の音だけが響いている。
島の人々は海辺に集まり、一人ずつ灯りを手にしていた。
ダイアナも、その中にいた。
小さな灯りを両手で包む。
幼いころから、何度も見てきた。
母と一緒に見た年もあった。
父に肩を抱かれながら海を眺めたこともある。
毎年、同じ海、同じ灯り、同じ夜。
だから、その景色に驚いたわけではない。
ただ、今年は、少しだけ違っていた。
レオンとカイルがいた。
ダイアナは、ほんの少しだけ不思議な気持ちになった。
やがて、最初の灯りが海へ置かれる。
小さな灯りが、波に揺れた。
一つ。
また一つ。
十。
二十。
やがて、無数の灯りが海へ流れていく。
波に乗って、ゆっくりと、沖へ。
海辺から遠ざかっていく灯りを見ながら、
ダイアナは昔から知っている景色を、静かに見つめていた。
そして、灯りと灯りの間が少しずつ繋がっていく。
海辺から沖へ。
海の上に細い光の道ができる。
「光の道………」
レオンが呟いた。
ダイアナが振り返る。
「そう呼ぶ人もいるわ」
レオンは海を見つめた。
「いい名前ですね」
「ええ」
ダイアナは頷いた。
「帰る場所を忘れないための道だから」
レオンは、その言葉を聞いた。
そして、昼間まで見ていた記録とは違う意味で、
この灯りを見つめた。
海へ出た人のため。
帰ってこられなかった人のため。
残された人のため。
そして、その場所に帰りたいと思う、すべての人のために。
レオンは、隣にいるダイアナを見た。
彼女にとって、この光は、幼いころから知っているものなのだ。
自分が知らなかった時間を、自分の知らない彼女を、この島はずっと知っている。
そう思うと、もっと、この島を知りたいと思った。
そして、彼女がどんな日々を過ごしてきたのか、もっと知りたいと思った。
それが、恋慕なのだと、もう、分かっていた。
―
少し離れた海辺では、カイルが一人の船員から灯りを受け取っていた。
「カイルさん、これ」
「ああ」
小さな灯りを手に取る。
カイルは海を見る。
船乗りにとって、夜の海は、昼とは違う顔をしている。
岸が見えなくなる。
方向を失えば、帰れなくなる。
だから、灯りは、だた綺麗なものではない。
帰る場所を示すものだ。
沖へ流れて行く無数の灯りを見ながら、カイルは夜の海を思い出した。
ダイアナと何も話さず、ただ海を見ていた。
カイルは灯りを海へ流した。
小さな光が、波に乗って遠ざかっていく。
カイルは、静かにその光を見送った。
海の上には、港から沖へ続く光の道が伸びている。
遠くへいく者のために。
帰ってくる者のために。
そして、ここに残る者のために。




