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第73話 花茶の午後

フェアチャイルド家御用達の喫茶室は、王都の中心街から少し離れた、古い石造りの建物の二階にあった。


表通りに面した一階には、異国から届いた茶葉や香辛料を扱う店舗になっている。

けれど、その喧騒は厚い扉を一枚隔てるだけで、まるで別の世界のものになる。

階段を上がった先には、磨き上げられた真鍮の取っ手がついた扉があり、その向こうに、落ち着いた空間が広がっていた。


高い天井には繊細な装飾が施され、壁には淡いクリーム色の絹織物が張られている。

窓辺には季節の花が飾られ、午後の陽射しが薄いレースのカーテンを透かして、室内に柔らかな光を落としていた。


壁際には深い緑色のベルベットを張った長椅子。

小さな丸テーブルには、白磁の茶器と銀の砂糖入れが整然と並べられている。

ここは、フェアチャイルド家が長年にわたって商談や客人との会談に利用してきた場所だった。


家の者たちが気兼ねなく過ごせるよう、店主も給仕も余計な詮索をしない。

個室に案内された客の会話が外に漏れることもない。

ノアは、その喫茶室の奥にある小さな個室でマレアを待っていた。

テーブルの上には、彼女の好みに合わせて選んだ花茶と、小さな焼き菓子が用意されている。


手紙を受け取ったのは、昨日の午後だった。

短い文章だったが、マレアらしく丁寧な筆跡だった。


――会って話したいことがあります


それだけだった。


競馬大会で彼女に何かがあったことは、ノアも知っていた。

あの日、彼女の様子がいつもと違っていたことを。

人の輪の中にいながら、ふと遠くを見つめるような瞬間があったこと。


気づいていなかったわけではない。

けれど、ノアは尋ねなかった。

彼女が話してくれるまで待とうと思ったからだ。

扉の外で控えめな足音がした。


「お嬢様がお見えになりました」


給仕の声に、ノアは立ち上がった。


「どうぞ」


扉が開き、マレアが姿を現した。

淡い青色のドレスに身を包み、濃い栗色の髪を後ろでまとめている。

青緑色の瞳は、窓から差し込む光を受けて、いつもより少し淡く見えた。


「待たせてしまったかしら」

「いいえ。僕も今来たところだよ」


ノアは微笑んで、彼女の椅子を引いた。

マレアは小さく礼を言って腰を下ろす。

給仕が茶を注ぎ、扉が静かに閉じられる。

二人きりになった部屋には、陶器の触れ合う小さな音と、窓の外から聞こえる遠い馬車の走行音だけが残った。


「花茶を用意してくれたのね」

「君が以前気に入っていたから」

「覚えていてくれたの?」

「もちろん」


ノアは向かいに座った。

いつもなら、ここから他愛のない話が始まる。

王都の書店で見つけた本のこと。

フェアチャイルド家の厩舎で生まれた仔馬のこと。

アステリアの海の色や、島での暮らしのこと。


彼女は何度か口を開きかけ、結局、言葉を飲み込んでいる。

ノアは急かさなかった。

やがてマレアは、カップを置いた。


「競馬大会の日のことを話したいの」

「うん」

「アドリアンに会ったでしょう?」

「……」

「彼から……気持ちを伝えられたの」


ノアはわずかに目を伏せた。

やはり、そうだったのか。

予想していたことではあった。

けれど、実際に彼女の口から聞くと、胸の奥に小さな重みが落ちていく。


「アステリアを離れてからも、ずっと私に会いたいと思っていたと。あの島で過ごした日々を忘れられなかったと、そう言ってくれたわ」


マレアの声は静かだった。


「私も、アドリアンとの時間を大切に思っているの。

 あの島で一緒に過ごしたことも、海辺で交わした約束も、忘れてしまったわけではないわ」


ノアは彼女を見つめた。

彼女の瞳には、懐かしさと、戸惑いと、少しの痛みがあった。


「大切な思い出なんだね?」


マレアは頷いた。


「そうね」


ノアはそれ以上、尋ねなかった。

アドリアンが何を話したのか、どんな表情をしていたのか。

マレアがその告白を聞いて、どんな気持ちになったのか。

知りたいことは幾つもあった。

けれど、彼女が今ここに来た理由は、ノアに問い詰められるためではないはずだった。


「私ね、あの日からずっと考えていたの」


マレアは両手をカップに添えた。


「自分の気持ちが分からなくなったわけではないと思うの。でも、アドリアンの言葉を聞いて、私の中に 

 も、まだ整理できていないものがあるのだと気づいたわ」

「うん」

「あなたと過ごす時間は、とても穏やかで、楽しいの。

 あなたと話していると、知らなかった世界が広がっていくような気がする。

 あなたの馬の話を聞くのも好きだし、厩舎で馬たちと接しているあなたを見るのも好き」


そこでマレアは、少しだけ笑った。

ノアはその笑顔を見ていた。

初めて書店で会った日のことを思い出す。

大きなステンドグラスの前で、ステンドグラスの美しさに心奪われていた。

目当ての本を見つけられずにいた彼女に声をかけたとき、返ってきたのは、礼儀正しい言葉と、知りたいことを隠さない好奇心に満ちた瞳だった。


あの日から、ノアは彼女に惹かれていった。

王都の令嬢たちとは違うから、という単純な理由ではない。

彼女には彼女の世界があった。

海を愛し、島の人々を大切にし、自分の知らないものに臆することなく手を伸ばす。

誰かの期待に合わせるのではなく、自分の目で見て、自分の心で考える。

その姿が好きだった。


「でもね」


マレアの声が、ノアを現在に引き戻した。


「だからこそ、あなたに曖昧なままでいて欲しくないの」


彼女はノアをまっすぐに見た。


「私は、あなたに誠実でいたい」


その言葉は、ノアが思っていたよりも深く胸に響いた。


マレアは続けた。


「あなたとの縁談が進んでいることを、私は大切に考えているわ。

 あなたの気持ちも、フェアチャイルド家が私たちに寄せてくれている信頼も。

 何より、あなた自身を」


彼女は一度、息を整えた。


「でも、今すぐ何もかも決めたようなことは言いたくないの。

 アドリアンの気持ちを知ったあとで、それをなかったことにして、何も変わらずにあなたと

 向き合うこともできないと思う」


ノアは、テーブルの上に置いた自分の手を見た。

彼女は、自分を選ぶとは言わなかった。

けれど、彼女は逃げていない。

自分の気持ちを取り繕わず、ノアにとって耳当たりのよい言葉だけを選ぶこともしなかった。

それは、彼女なりの誠実さだった。

そして、ノアが望んでいたことでもあった。


「マレア」

「はい」

「話してくれてありがとう」


彼女の瞳が、少し揺れた。


「僕は、君に急いで答えを出して欲しいとは思っていないよ」


マレアは黙って聞いていた。


「僕といる時まで、何もかも整理して、きれいな答えを用意しなくていい」


彼はそこで言葉を切った。

本当は、少し怖かった。

アドリアンが彼女にとってどれほど大切な存在なのか、ノアには分からない。

競馬大会で見た二人の間には、ノアの知らない記憶が確かにあった。

自分には入り込めない場所がある。

そう思うと、胸の奥が静かに痛んだ。


「君と一緒にいると、明日もまた会いたいと思う」


飾り立てた言葉でも、相手を説得するための言葉でもない。

ただ、彼の中にある気持ちをそのまま口にしただけだった。


マレアは俯いた。

カップの中では、花びらがゆっくりと揺れている。

自分は、ノアに何を求めているのだろう。


安心だろうか。

優しさだろうか。

それとも、彼と過ごす未来を望んでいるという、自分自身の確かな気持ちだろうか。

まだ、すべてを言葉にすることはできない。

けれど、ひとつだけ分かっていることがあった。


ノアの前で、良い娘であろうとする必要はない。

彼に気にいられるために、迷いのない女性を演じる必要もない。

この人には、きちんと自分の心を見せたい。

それが、今のマレアの願いだった。


「私も、あなたといる時間が好き」


彼女は小さく言った。

ノアの表情が柔らかくなる。

給仕が新しい茶を運んできたとき、二人の間には、先ほどまでの張り詰めた空気はもうなかった。


今日、彼女は自分を選ぶとは言わなかった。

けれど、自分に心を開こうとしてくれた。

そのことを、今は大切にしたかった。


帰り際、ノアは彼女の外套を手に取り、肩に掛けるのを手伝った。


「また会おう」

「ええ、また」


扉の向こうには、夕暮れに染まり始めた王都の街並が広がっていた。

彼女の心には、まだ答えの出ていない問いが残っている。

誰かを大切に思うことと、自分の過去を大切にすることは、きっと両立できる。

マレアはそう思いながら、階段を一段ずつ降りて行った。

そしてノアは、彼女の後姿が見えなくなるまで、扉のそばに立っていた。


急がなくていい。

彼女が自分の意志でこちらへ歩いてきてくれるなら、その時間を待つことも、きっと愛情のひとつなのだから。

 

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