↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
74/74

第74話 父から受け継いだもの

アステリアを発ってから、季節は春から夏へと移り変わっていた。


マレアは王都での暮らしにも慣れ、父カイルとともに過ごす日々の中で、新しい世界を知っていった。

商人たちとの会合では、アステリアの交易について学び、領事館では島から届く報告書に目を通す。

夜会や茶会では、王都の貴族たちの習慣にも触れた。


それでも、窓の外に海が見えない暮らしには、なかなか慣れなかった。

朝、目を覚ますと、無意識に潮の匂いを探してしまう。

アステリアでは当たり前だった波の音も、ここでは聞こえない。


アステリアが恋しい。


そう思うたびに、マレアは自分がどれほど島を愛しているのかを知るのだった。


そんなある日、カイルが実家を訪ねることを告げた。

軍港に近い海辺の町にある、カイルの生家だった。

マレアにとっては、初めて訪れる場所であり、初めて会う祖父が暮らす家でもある。


馬車が町を抜けると、潮の匂いが強くなった。

港には大きな軍艦が何隻も停泊し、船員たちが忙しそうに行き交っている。

帆柱が幾重にも重なり、風に揺れる索具の音が遠くから聞こえてきた。


「港に船がたくさん…海の匂いがする」


カイルにとっては当たり前の光景に目を見張るマレアにカイルは応えた。


「昔は、ここに来るたびに船を見ていた。気に入った船があると、いつまでもその後を追いかけたもの  

 だ」


カイルが懐かしそうに笑った。

マレアは父の横顔を見つめた。

自分の知っている父は、いつも落ち着いていて、物事を決める時に迷いがない。

大きな身体に似合わず、声を荒げることもほとんどない。

けれど、かつては船を追いかける少年だったのだ。

そんな父の姿を想像すると、少し可笑しくなった。


「お父様にも、そんな頃があったのね」

「私にも子供時代はあった」


二人は顔を見合わせて笑った。

やがて馬車は、港を見下ろす丘の上に建つ洋館へと到着した。

白い石造りの館は、長い年月を経てなお堂々としていた。

左右に広がる翼棟には大きな窓が並び、正面には石柱のある玄関ポーチが設けられている。

広い庭には古い樹々が枝を広げ、玄関へ続く石畳の両側には、手入れの行き届いた花壇が並んでいる。

そして洋館の窓からは軍港と、その向こうに広がる海が見えた。


「ここが、私の育った家だ」


カイルが言った。

馬車を降りると、マレアはしばらく洋館を見上げた。

父がこの場所で育った。

母と出会うずっと前、この海を眺め、この庭を走り、家族と食卓を囲んでいたのだ。

自分の知らない父の時間が、ここには残っている。


玄関では、年配の執事が待っていた。


「おかえりなさいませ、カイル様」

「ああ。父は?」

「居間でお待ちでございます」


カイルは頷き、マレアに手を差し出した。


「行こう」


マレアはその手を取った。


「カイル」


奥から声がした。

扉の向こうに、一人の老人が立っていた。

背筋は伸びているものの、年齢を感じさせる白髪と、深く刻まれた皺があった。

目元には、カイルによく似た面影がある。

床に伏せる日が増えたと聞いていたが、その瞳には力強さがあった。

老人はしばらく彼女を見つめていた。

やがて、目元が柔らかくなる。


「よく来たな、マレア」


祖父は、孫娘の手を両手で包み込んだ。

その声には、長く待ち続けた人の温かさがあった。


「会える日を楽しみにしていた」

「初めてお目にかかります。

 おじい様にお会いできて私も嬉しいです」


マレアは、カイルにそっくりな笑顔を向けた。


居間に案内される途中、マレアは廊下に飾られた肖像画に目を留めた。

若い女性が描かれている。

淡い金色の髪に、青い瞳。優雅な佇まいの中にも、どこか親しみやすい柔らかさがあった。


「おばあ様ですか?」

「ああ。カイルの母だ」


祖父が答えた。

マレアは肖像画を見つめた。

その顔立ちは、妹のセレスによく似ていた。


「セレスは、おばあ様にそっくりなのですね」

「そうだな。母の面影をよく受け継いでいる。

 セレスの顔を見るたびに、母を思い出す」


カイルが肖像画を懐かしそうに見ながら答える。


昼食の後、祖父はカイルとマレアを海の見える書斎へ案内した。

そこには古い海図や航海記録が並んでいた。

壁には軍港の古い絵が飾られ、机の上には真鍮製の望遠鏡が置かれている。


「ここは、カイルが子どもの頃から好きだった場所だ」


祖父は窓辺を指した。


「朝になると、あそこに座って港を眺めていた。船が入ってくると、すぐに私のところへ来て、あの船は

 どこから来たのかと聞くのだ」

「父上は、そのたびに教えてくれた」

「教えたところで、翌日には別の質問を持ってくる」


祖父は笑った。


「ある時など、海軍の船に乗せてくれと頼んできてな。まだ背丈も十分でない子どもが、

 船乗りになりたいと言うのだから困ったものだ」

「覚えていますか?」


マレアは父に尋ねた。


「断片的にはな。船が好きだったのは確かだ」


カイルは窓の外を見た。


「だが、私が本当に惹かれていたのは、軍艦そのものではなかった。船で海を渡り、知らない土地へ行く

 ことだった」


祖父は頷いた。


「私は息子が海軍に進み、私と同じ道を歩むと思っていた。

 けれど、カイルは違う道を選んだ」

「父上は、私が軍人になることだけを望んでいたわけではない」

「そうだ。私が望んだのは、お前が自分の人生を自分で選ぶことだった」


祖父は机の引き出しから、小さな木箱を取り出した。

中には古い羅針盤が収められていた。


「これは、私の父から受け継いだものだ。カイルが自分の船を持った時に渡そうと思っていた」


カイルは羅針盤を見つめた。

祖父は羅針盤を息子の手に置いた。

カイルはしばらく黙っていた。

やがて、静かに礼を述べた。

マレアは、その様子を見守っていた。


父が受け継いだもの。

それは古い羅針盤だけではないのだろう。

海を愛する心。

自分の進む道を決める自由。

そして、誰かの期待ではなく、自分の意思で人生を選ぶこと。


マレアは父に尋ねた時のことを思い返していた。


――

「お父様は、どうしてアステリアへ行こうと思ったの?」

「秘密の島と言われていたアステリアの海を、見てみたいと思ったから」

「そのとき、お母様に出会ったのね」

「ああ」

「最初から、島に住むつもりだったの?」

「いや。最初はそんなことを考えていなかった。

 だが島で過ごすうちに、アステリアの海も、風も、港の人々も好きになっていた。

 そして、ダイアナ、彼女と共に生きることを選んだ。彼女を愛したから」


マレアは父の言葉を心の中で繰り返した。

『共に生きることを選んだ』


父は王都で生まれ、王都で育った。

家族も友人も、これまで築いてきたものも、この場所にあった。

それでも、父はアステリアを選んだ。


自分が知っている父の人生は、ほんの一部に過ぎなかった。

父がアステリアを選んだように、自分はアステリアを選べるのか、マレアはその答えを見つけつつ

ある気がした。


夕方、マレアは一人で洋館の庭を歩いていた。

木々の間から海が見える。

軍港には何隻もの船が停泊し、夕陽を受けた帆柱が長い影を落としていた。

庭の隅には、古いベンチが置かれている。

腰を下ろすと、遠くから船員たちの声が聞こえてきた。

父も、かつてこの庭で同じ音を聞いていたのだろう。

少年だった父は、何を夢見ていたのだろう。

いつか大きな船を持ちたいと思っていたのかもしれない。

広い海へ出て、知らない土地を見てみたいと願っていたのかもしれない。

そして、アステリアへ辿りついた。

そこで、母と出会い、自分の人生を変えた。


マレアは膝の上で両手を重ねた。

自分は、頭領の娘だ。

アステリアの頭領の娘として生まれ、いつかその名を受け継ぐかもしれない。

それは、幼い頃から当たり前のように自分のそばにあった。

けれど、頭領になるということが何を意味するのか、深く考えたことはなかった。


父のように、自分の道を選ぶことができるのだろうか。

母のように、島の人々の暮らしを守ることが出来るのだろうか。


マレアは海を見つめた。

アステリアの海が恋しかった。

あの島へ帰りたい。

母のいる砦へ帰りたい。

港の人々に会いたい。

潮の道を通って島へ戻りたい。


けれど、今までとは少し違う気持ちが胸に芽生えていた。

ただ帰りたいのではない。

あの島のことを、もっと知りたい。

母が何を考え、どんな思いで島を治めているのか。

父が何を選び、何を島にもたらしたのか。


自分が受け継ぐものとは何なのか。


「ここにいたのか」


振り返ると、父が立っていた。


「お父様」

「夕食にしよう」


立ち上がろうとしたマレアに、カイルが手を差し出した。


「お父様」

「何だ」

「私、アステリアに帰ったら、お母様の仕事をもっと知りたい」


カイルは娘を見た。 


「そうか」

「漠然と、お母様の仕事を継ぐのかもと思っていたの。

 でも、私はアステリアのことも頭領家のことも何も知らないのね」

「それに気づいたのなら、十分な一歩だ」


二人は並んで祖父が待つ食卓へ向かっていった。


その夜、マレアは寝室の窓から、遠くに見える海を眺めた。

自分がどこから来たのか。

父がどこから来たのか。

母が何を守ってきたのか。

それを知ることは、自分がこれからどこへ向かうのかを考えることでもある。


アステリアの三本の銀の波。

島の現在、過去、未来。

幼い頃、母から聞いた旗の意味を思い出した。

自分は、まだ過去を知り始めたばかりだ。

けれど、いつかその未来を担う日が来るのかもしれない。

マレアは窓を閉め、静かに寝台へ戻った。

王都で過ごす夏は、もう少し続く。

そして、この夏が終わる頃には、今までとは少し違う自分になっている気がした。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。