第72話 想いの輪郭
アステリアの領事館の庭では、白い小花をつけた蔓草が石壁を伝い、薔薇の蕾が少しずつ開き始めている。
陽射しは明るく、午後の風には若葉の匂いが混じっていた。
マレアは領事館の二階にある自室の窓辺に立ち、庭を眺めていた。
競馬大会から数日が経っている。
あの日以来、彼女の心には、これまでとは違う静かな波が立ち続けていた。
アドリアンの言葉が、ふとした瞬間によみがえる。
――アステリアを離れてからも、ずっと会いたいと思っていた
あの告白を聞いたとき、マレアは驚き、戸惑い、そして胸が締め付けられるような思いがした。
アドリアンは、幼い頃から知っている友人だった。
アステリアの海辺で過ごした日々。
貝殻を拾い、他愛のない話をし、また会おうと約束したあの日。
彼が島を去った後も、マレアの中には懐かしい記憶として残っていた。
けれど、彼がその思い出をどれほど大切にしていたのか、マレアは知らなかった。
夜会で再会した時も、競馬大会で顔を合わせたときも、彼は以前と変わらないアドリアンに見えた。
穏やかで、少し控えめで、けれど自分の信念を持っている少年。
その彼が、ずっと自分に会いたいと願っていた。
そう思うと、胸の奥が温かくなる。
自分の存在が、誰かにとってそれほど大切だったということが、素直に嬉しかった。
しかし、その嬉しさは恋とは違っていた。
マレアはそれを認めるまでに、少し時間がかかった。
アドリアンの気持ちを知ってから、彼との思い出を何度も振り返った。
もし、あのとき違う言葉を交わしていたら。
もし、王都で再会したとき、もっと違う気持ちを抱いていたら。
けれど、どれほど思い返しても、心に浮かぶのは懐かしさと親しみだった。
彼の笑顔を見たい。
これからも話をしたい。
アステリアのことを、昔のように語り合いたい。
それは、失いたくない友人への気持ちだった。
アドリアンは大切な友人なのだ。
彼の気持ちを知ったかといって、これまでの二人の時間が変わるわけではない。
むしろ、その想いを知ったからこそ、彼との友情を粗末にしたくなかった。
けれど、それを彼にどう伝えればいいのかは、まだわからない。
そして、もう一つ。
マレアには、どうしても考えずにはいられない人がいた。
ノア。
その名前を思い浮かべると、胸の奥に別の温かさが広がった。
フェアチャイルド家の庭を案内してくれた時のこと。
馬の話をする彼の表情。
シリウスの首筋を優しく撫でながら、馬に語りかける優しい声。
ノアといると、自分の知らない世界を見せてもらえるような気がした。
彼は商人の家に生まれ、王都で育った。
マレアとは違う環境にいるはずなのに、話していると不思議なくらい自然だった。
アステリアの話をすると、彼はいつも興味深そうに耳を傾けてくれる。
島の海や港のことを話すと、まるで自分もそこにいるかのように目を輝かせる。
マレアは、そんなノアの表情を見るのが好きだった。
何かを見つけた時、彼に伝えたいと思う。
美しい景色を見たとき、一緒に眺めたいと思う。
次に会える日を、いつの間にか心待ちにしている。
そうした小さな気持ちを一つずつ拾いあげていくと、答えは明らかだった。
自分が好きなのはノアなのだ。
ノアに、アドリアンのことを話すべきだろうか。
競馬大会で告白されたことを、黙っているのは誠実ではないように思う。
けれど、話したところで何が変わるのだろう。
ノアはきっと驚くだろう。
もしかすると嫉妬するかもしれない。
アドリアンと自分が過ごした昔の時間を、快く思わないかもしれない。
そう考えると、言葉にするのが怖くなった。
何より、ノアの表情が曇るところを見たくなかった。
自分の心は決まっている。
アドリアンを選ぶつもりはない。
ノアと一緒にいる未来を考えたい。
それなのに、どうして告白されたことを伝える必要があるのだろう。
一瞬、話さずにおくという考えが浮かんだ。
何もなかったことにしてしまえば、今までと同じようにノアに会える。
アドリアンとの関係も、少しずつ元に戻していけばいい。
けれど、その考えにマレアは小さな違和感を覚えた。
ノアとこれからも親しくなりたいと思っているのに、彼に知られたくないことを自分の中にしまっておく。それは、自分が望んでいる関係なのだろうか。
ノアには、自分のことを知って欲しい。
頭領の娘としての自分だけではなく、迷ったり、悩んだり、時には自分でも分からない気持ちに戸惑う、一人の人間としての自分を。
そう思うと、隠しておくことがますます苦しくなった。
マレアは窓辺を離れ、部屋を出た。
書斎には、父がいた。
机には王都の商人から届いた書簡が広げられ、海運に関する資料がいくつか重ねられている。
カイルはマレアが入ってくると、手にしていた書簡を置いた。
娘の表情を見れば、何か相談があることはすぐに分かった。
マレアは向かいの椅子に腰を下ろした。
しばらく、何から話せばいいのか考えていた。
やがて、競馬大会での出来事を父に話した。
アドリアンが一人になった自分に声をかけてくれたこと。
長い間、会いたいと思っていたと告げられたこと。
そして、その言葉を聞いてから、彼との幼い日の思い出を何度も振り返っていたこと。
カイルは途中で口を挟まず、静かに耳を傾けていた。
「私、アドリアンのことが大切なの。けれど、それは恋ではないと思う。
彼とは、これからも友達でいたい」
そう話すマレアの声には、迷いよりも確かな思いがあった。
アドリアンの気持ちを知ったことで、彼が自分にとってどれほど大切な存在だったのかを、改めて知ったのかもしれない。
そして、もう一つの気持ちも、以前よりはっきりしていた。
「私が好きなのは、ノアよ」
口にすると、胸の奥が少し熱くなった。
カイルは娘を見つめていたが、特別な反応は示さなかった。
ただ、その言葉を確かめるように、ゆっくりと頷いた。
マレアは続けた。
ノアにはアドリアンのことを話すべきか、ずっと悩んでいるのだと。
話したい。
隠し事をしたくない。
けれど、彼を傷つけるのが怖い。
アドリアンへの気持ちを誤解されたくない。
自分の中にある相反する思いを、ようやく言葉にすることができた。
カイルはしばらく考えたあと、静かに口を開いた。
「お前が彼に話したいと思うならば、話せばいい」
それは、思っていたよりも簡単な答えだった。
「ただし、彼がどう受け止めるかまで、お前が決める必要はない」
マレアは父を見た。
「ノアが嫉妬するかもしれない。気にするかもしれない。
それは彼の気持ちだ。お前が先回りして、彼の感情を避けようとする必要はない」
カイルは窓の外へ目を向けた。
初夏の陽射しが庭の石畳に落ちている。
「相手を信頼するというのは、相手がどんな気持ちになるか分からないときにも、
自分の言葉を伝えることだ」
その言葉に、マレアは膝の上で重ねていた手をほどいた。
ノアを傷つけたくないという気持ちは本当だった。
けれど、それはノアを信頼していないこととは違うだろうか。
彼がどんな反応をするか分からないからこそ、話すことをためらっていた。
自分が望むのは、何も知らないまま穏やかに笑ってくれるノアではない。
自分の言葉を聞き、自分の気持ちを受け止めてくれるノアと向き合いたいのだ。
「お父様は、お母様とそうしてきたの?」
「そうだ」
カイルの答えは短かった。
「互いの人生を尊重することは、何もかもを一人で抱えることとは違う」
マレアはその言葉を胸に刻んだ。
父と母は、それぞれ自分の人生を持っている。
母はアステリアの頭領として、父は海と船を愛する一人の男として。
二人は互いの世界を尊重しながら、共に生きることを選んだ。
ノアと自分も、いつかそんな関係を築けるだろうか。
まだ分からない。
けれど、そうなりたいと思っている。
「彼に会って、話してみるわ」
マレアが言うと、カイルは小さく頷いた。
「そうしなさい」
書斎を出る頃には、窓の外の陽射しが少し傾いていた。
廊下を歩きながら、マレアはノアのことを考えていた。
彼に会ったら、最初に何と言おう。
競馬大会でアドリアンから告白されたことを、どんなふうに伝えよう。
自分の気持ちは決まっていると、きちんと言えるだろうか。
考えれば考えるほど、胸が落ち着かなくなる。
けれど、もう先延ばしにはしたくなかった。
アドリアンは大切な友人だ。
そして、ノアは自分がこれからもっと知りたいと思う人だった。
誰かの想いに応えるためではなく、自分自身の心で選びたい。
マレアは自室に戻ると、机に向かった。
便箋を一枚取り出し、ペンを手に取る。
しばらく白い紙を見つめた後、ゆっくりと書き始めた。
ノアに会いたい。
そう書きかけて、少しだけ頬が熱くなる。
まだ伝えたいことはたくさんある。
けれど、最初からすべてを手紙に書くつもりはなかった、
次にあった時、彼の顔を見て、自分の言葉で話そう。
窓の外では、初夏の風がカーテンを揺らしていた。
マレアはペンを置き、書きかけの便箋をそっと畳んだ。
彼女の心には、もう一つの思いが芽生えていた。
アドリアンとの思い出を大切にしたまま、ノアとの未来を望んでもいい。
過ぎ去った時間を否定する必要はない。
ただ、これから歩いていく道は、自分で選びたい。
そう願う自分の気持ちを、マレアはもう隠そうとは思わなかった。




