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第71話 春の名残を駆ける

王都競馬大会。


春の盛りを過ぎた王都には、初夏の気配が忍び寄っていた。

街路樹の若葉は日に日に濃さを増し、石畳の道には午後の陽射しが柔らかく降り注いでいる。

貴族たちの庭では遅咲きの薔薇が花開き、風に乗って甘い香りを運んでいた。


その日、王都の郊外にある広大な競馬場には、朝早くから大勢の人々が集まっていた。

年に一度開かれる王都競馬大会。

貴族たちにとっては家の名誉を懸けた催しであり、商人たちにとっては自らが育てた馬の質と血統を披露する晴れ舞台でもあった。

競技場を囲む観覧席には、色鮮やかなドレスをまとった令嬢たちや、華やかな装いの紳士たちが並んでいる。


マレアは観覧席の一角で、競馬場を見渡していた。

淡い青緑色のドレスは、初夏の光によく映えていた。

胸元には銀糸で波模様が刺繍され、袖口には薄いシフォンが幾重にも重ねられている。

濃い栗色の髪は後ろで緩やかにまとめられ、小さな銀の髪飾りが添えられていた。

青緑色の瞳は、遠くの芝地にいる馬たちを興味深く追っている。


「ずいぶんと熱心に見ているね」


隣から声がした。

振り向くと、ノアが立っていた。

濃紺の上着に、落ち着いた色合いのベスト。

いつもの親しみやすい笑顔を浮かべている。


「だって、こんなにたくさんの馬が集まるのは初めてだもの」

「気に入った馬はいた?」

「まだわからないわ。みんな美しいから」

「それなら、今日は目を凝らして見ておくといい。

 馬は姿だけでは分からないからね」


ノアは競技場へ視線を向けた。

彼の父、エドワード・フェアチャイルドが所有する競走馬も、この大会に出場する。

フェアチャイルド家は商業だけでなく、馬の育成にも力を入れていた。

王都の邸宅に併設された厩舎では、優れた血統の馬を選び、時間をかけて育てている。


ノア自身も馬を愛していた。

彼の愛馬シリウスは競走馬ではないが、栗色の毛並みと額の白い星が印象的な美しい馬だった。


「あなたも出場すれば良かったのに」


マレアが言うと、ノアは笑った。


「僕が乗るより、馬を育てた者と騎手に任せる方がいい。

 今日はフェアチャイルド家の馬がどこまで走れるか、しっかり見届けるつもりだよ」


その横顔には、普段の穏やかさとは少し違う、仕事に向き合う若者の表情があった。

マレアはそれを眺めながら、ノアと結婚したことを想像したときを思い出していた。

この人はきっと、馬の世話をするために厩舎へ通い、時には何時間も馬の様子を眺めているのだろう。

自分もその隣に立ち、馬の名前を覚えたり、仔馬が生まれる日を一緒に待ったりするのかもしれない。


ノアがアステリアに来たなら。

海の近くに厩舎を建てて、ノアが好きな馬を育てる場所を作る。

そんな未来を思い描いて、マレアは少し微笑んだ。


「何を考えているの?」

「秘密よ」

「それは残念だな」


ノアは追及しなかった。

ただ、彼女の表情が柔らかくなったことを嬉しそうに眺めていた。


やがて、競技場にラッパの音が響いた。

最初の競争が始まる。

出場する馬たちが騎手に導かれ、整列していく。

その中に、ヴェルナー家の紋章を掲げた一団があった。

先頭にいる馬は黒鹿毛の牡馬だった。筋肉のついた首は美しく、脚は長くしなやかで、落ち着いた様子で騎手の手綱に従っている。


「ヴェルナー家の馬ね」


マレアが呟いた。


「そうだね。血統もいい。かなり期待されている馬だ」


ノアが答える。

そのとき、観客席の向こう側から声がした。


「レア!」


振り向くと、アドリアンがこちらへ歩いてくるところだった。

プラチナブロンドの髪が陽射しを受けて淡く輝いている。青灰色の瞳は人々の間でもよく目立ち、すらりとした長身に仕立ての良い上着をまとった姿は、周囲の令嬢たちの視線を集めていた。

彼はマレアの前まで来ると、微笑んだ。


「来ていたんだね」

「ええ。アドリアンも来ると思っていたわ」

「父の馬が出るからね。それに、君が来ると聞いていた」


その言葉に、マレアは少しだけ戸惑った。


「そうなの?」

「ああ」


アドリアンは自然な仕草で彼女に微笑みかけた。

その様子を、ノアは静かに見ていた。


「夜会以来かな、アドリアン」

「ノア、君も来ていたんだな」

「フェアチャイルド家の馬が出るからね」


二人は握手を交わした。

互いに礼儀正しい。

けれど、その視線の奥には簡単には言葉にできないものがあった。

マレアは二人の間に漂う微妙な空気を感じながら、競技場へ視線を戻した。


スタートの合図とともに、馬たちが一斉に走り出す。

地面を蹴る蹄の音が重なり、観客席から歓声が上がった。

先頭を走るのはヴェルナー家の黒鹿毛だった。

しかし、最後の直線に差しかかったところで、後方から一頭の栗毛が勢いよく追い上げてきた。


「フェアチャイルド家の馬だ!」


誰かが叫んだ。

ノアの表情が変わった。


「来た……!」


彼は身を乗り出し、走る馬を見つめていた。

いつもの穏やかな笑みは消え、真剣な眼差しが馬の動きを追っている。

マレアは、その横顔に目を奪われた。

馬の走りを見守るノアは、普段よりもずっと生き生きとしていた。


栗毛の馬が黒鹿毛に並んだ。

歓声が一段と大きくなる。

そして、二頭がほとんど同時にゴールへ飛び込んだ。

判定を待つ間、競技場は騒然となった。

やがて審判の旗が上がる。わずかな差でフェアチャイルド家の馬が二着になった。


「惜しかったわね」


マレアが声を掛ける。

ノアは息を吐いて笑った。


「そうだね。でも、よく走った。

 あの馬にはまだ伸びしろがある」

「あなたは本当に馬が好きなのね」


ノアは少し照れたように笑った。

そのやり取りを、アドリアンは少し離れた場所から見ていた。

マレアがノアに向ける笑顔。

ノアが彼女を見る眼差し。

二人の間にある親密さ。

互いを知ろうとする時間を重ねてきたことは、誰の目にも明らかだった。

アドリアンは、今まで感じたことのない胸の痛みを覚えた。


次の競争までには、しばらく時間があった。

観覧席を離れたマレアは、少し人の少ない庭園の方へ歩いていた。

競技場の喧騒から離れると、風に揺れる若葉の音が聞こえる。

薔薇の植え込みのそばで立ち止まっていると、背後から足音がした。


「レア」


アドリアンだった。


「少し話せる?」


いつもの礼儀正しい、王都の若い紳士らしい様子ではなく、落ち着かない表情だった。

マレアは頷いた。


「どうしたの?」


アドリアンはすぐには答えず、言葉を探しているように見えた。

庭園の向こうでは、次の競争に備える馬たちが引かれていく。

彼はその様子を眺めてから、静かに口を開いた。


「アステリアを離れたあとも、ずっと会いたいと思っていた」


マレアは彼を見上げた。


「……アドリアン」

「一つの貝殻を分け合って二人でずっと持っていようと君は言ったね。

 僕は、あの約束を忘れたことはない」


マレアの胸が小さく揺れた。

あの日、少女と少年が海辺で交わした約束。

二人だけが知っている、幼い日の思い出。

けれど、目の前にいるアドリアンは、もうあの頃の少年ではなかった。


「君が好きなんだと思う。

 君が誰かのものになることを考えると平気ではいられない」


マレアは返す言葉を見つけられなかった。

マレアにとってアドリアンは十歳の時に王都からアステリアを訪れた大切な人ではあったし

アドリアンを好きだったが、アドリアンの気持ちに応えることができるかはわからなかった。

彼女は視線を落とした。

幼い頃の思い出は、今も大切なものとして胸の中にある。

それが恋なのか、懐かしさなのか。


庭園を出たマレアが観客席へ戻ると、ノアが手すりの側に立っていた。


「どこへ行っていたの?」

「少し風に当たっていたの」

「そう」


ノアはそれ以上尋ねなかった。

ただ、彼女の顔を見て、何かあったのだと察したようだった。


「次の競争が始まるよ」


そう言って、彼はマレアの隣に場所を空けた。

マレアはその横に立つ。

競技場では、騎手たちが次々と馬に跨っていた。


「ねえ」

「ん?」

「あなたは、アステリアに来たら馬を育てたい?」


ノアは少し驚いたように彼女を見た。


「そうだね。いつか、そういう場所を持てたら嬉しい」

「海の近くでも?」

「海の近く?」

「ええ。潮風が吹くような場所。馬は海の風を嫌がらないかしら」


ノアは微笑んだ。


「最初は慣れないかもしれない。でも、少しずつ慣らせばいい」


彼は競技場へ目を戻した。


「それに、馬が走る場所を作るなら、君と一緒に考えたい」


その言葉に、マレアの胸が温かくなる。

アドリアンの告白が、まだ心の中に残っていた。

それでも、今この瞬間、隣にいるノアと過ごす未来を想像すると、不思議と心が落ち着いた。

ノアは彼女の気持ちを急かさない。

自分の望みを押し付けることもない。

ただ、同じ景色を見ながら、これからの話をしてくれる。

それが、どれほど心地よいことなのか。

マレアはまだ、うまく言葉にできなかった。


そのとき、競技場に再びラッパの音が響いた。

春の名残を残す風が、観客席を吹き抜けていく。





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