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第70話 フェアチャイルド家の厩舎

王都の競馬大会まで、あと十日ほどとなった春の午後だった。


フェアチャイルド家の屋敷を訪れたマレアは、庭へ続く回廊をノアと並んで歩いていた。

その日の王都は良く晴れていた。

柔らかな風が吹くたび、花の香りが二人の間を通り過ぎていった。


「今日は、厩舎に案内してくれる約束だったわね。

 競馬大会に出る馬たちも見られるのでしょう?」


マレアが言うと、ノアは嬉しそうに振り返った。


「うん。今年はフェアチャイルド家から三頭出走するんだ。

 今は大会に向けて調整をしているところなんだ」


ノアの声には、いつもより弾んだ響きがあった。

王都の書店で初めて会ったとき、彼は穏やかで、どこか人懐こい笑顔を浮かべる若者だった。

けれど、馬の話になると、その表情には普段と違う輝きが宿る。

マレアはそれを見るのが好きになっていた。


「ノア様も大会の準備にも関わっているの?」

「うん。父は商売の方で忙しいから、馬のことは僕が任されている部分も多いんだ。

 もちろん、調教師や世話係たちの経験には及ばないけどね」


そう言って笑う彼の横顔を、マレアはそっと見つめた。


厩舎が近づくにつれ、馬のいななきや人々の声が聞こえてきた。

フェアチャイルド家の厩舎は、屋敷の裏手に広がる牧草地に面して建てられている。

赤褐色の煉瓦と濃い木材を組み合わせた建物は、商人の家らしい実用性を備えながらも、どこか品のある佇まいだった。

屋根は高く、馬房には十分な広さがある。

中央の通路は広々としており、壁際には鞍や手綱、手入れ道具が整然と並んでいた。

厩舎の奥には馬具の手入れをする作業場があり、その隣には飼料を保管する倉庫がある。

建物の外には調教用の馬場が広がり、数人の騎手が馬を走らせていた。


「わあ…」


マレアは思わず足を止めた。


「立派な厩舎ね」

「父が昔から馬を大切にしているんだ。商売で使う馬車馬もいるし、乗馬用の馬もいる。

 それに、競走馬を育てるための場所も少しずつ整えてきた」


ノアは慣れた様子で厩舎の中へ入っていく。

世話係たちが彼に気づき、親しげに挨拶をした。


「坊ちゃま、ちょうど今、出走予定の三頭が戻ったところです」

「ありがとう。後で調教師にも話を聞きたいんだけれど」

「承知しました」


ノアはマレアを振り返った。


「こちらが今回の大会に出る馬たちだよ」


馬房の中には、それぞれ毛色の異なる三頭の馬がいた。

鹿毛の馬は落ち着いた目をしており、栗毛の馬は首を高く上げて周囲を見渡している。

もう一頭の青鹿毛の馬は、静かに藁を食んでいた。


「みんな違うのね」

「性格もそれぞれだよ。あの鹿毛は辛抱強い。栗毛の方は少し気が強いけれど、走るときの集中力は

 素晴らしい。青鹿毛はまだ若いから、今回は経験を積ませることも一つの目的かな」


ノアは一頭ずつ説明していった。

その話し方に迷いがなかった。

馬の脚の状態、食欲、調教の進み具合。

マレアには難しく感じられる話もあったが、ノアは楽しそうに、時には身振りを交えながら話してくれる。

やがて調教師がやってきた。


「坊ちゃま、栗毛の方は今朝の調教でずいぶん良い走りを見せましたよ」

「最後の直線で少し力みませんでしたか?」

「ええ。ですが、先週よりは落ち着いています」

「それなら、明日は距離を少し短くして様子を見ましょう。大会まで無理をさせたくありません」


その言葉に、調教師は満足そうに頷いた。

ノアは馬の首筋に手を伸ばした。

その瞬間、栗毛の馬が彼の肩に鼻先を寄せた。

ノアは笑いながら、その額を撫でてやる。


「今日はよく頑張ったな」


マレアは、いつもと違う表情を見せるノアのその姿から目を離せなかった。

 

厩舎の奥には、ノアの愛馬シリウスがいた。

栗毛の身体に濃いこげ茶色のたてがみと尾。額には小さな白い星がある。


「シリウス」


ノアが呼ぶと、馬は耳を立てて顔を上げた。


「この子が、あなたの大切な馬ね」

「そう。僕の相棒だよ」


ノアは馬房の扉を開け、シリウスの首を抱くようにして撫でた。

その表情は、競走馬の調子を確認していたときとはまた違う。

どこか甘えるような、親しい者に向ける柔らかな笑顔だった。


「大会には出ないの?」

「シリウスは競走馬ではないからね。僕が乗って楽しむための馬なんだ。

 競走馬として育てることと、こうして一緒に過ごすことは、僕にとって少し違うんだ」

「そうなのね」


ノアはシリウスの額にある白い星を指先で撫でた。


「広い土地を手に入れて、自分の目で馬を選び、自分の手で育てたい。

 良い馬を育てるには時間がかかるし、思い通りにならないこともあるだろうけれど、

 それでもやってみたいんだ」

「ずっと前からの夢なの?」

「うん。子どもの頃からのね」


ノアはシリウスの首を軽く叩いた。


「馬は不思議だよ。こちらが思っていることを、全部分かっているわけではない。

 でも、毎日世話をして、声を掛けて、少しずつ信頼を築いていく。

 そうすると、こちらの気持ちに応えてくれることがあるんだ」


彼はシリウスの鼻先に手を添えた。


「僕は、そういう時間が好きなんだと思う」


マレアは彼の横顔を見つめた。

そのとき、ノアがふとこちらを振り返った。


「どうしたの?」

「ううん」


マレアは初めて見るノアの表情から目が離せなくなっていた自分に気がついた。

いつもの優しい笑顔とは違う。

自分の好きなものを語るときの、迷いのない表情。

瞳の奥が明るくなり、ノアの本当の姿を見た気がした。


マレアは、思わず視線を逸らした。

どうしてだろう。

今まで何度も彼の笑顔を見てきたのに、笑顔を向けられると彼を意識してしまう。


厩舎を出ると、ノアは馬場の柵に手をかけた。

ちょうど一頭の競走馬が、騎手を乗せてゆっくりと走り始めていた。


「大会では、どの馬が勝つと思う?」


マレアが尋ねると、ノアは少し考えた。


「フェアチャイルド家の馬に勝って欲しいとは思うよ。

 でもヴェルナー家の馬もかなり良いと聞いている」

「ヴェルナー家も出場するのね」

「そう。競馬大会では何度か顔を合わせているよ」

「君も大会を見に来る?」

「ええ。ぜひ見てみたいわ」

「良かった。君に見てもらえるなら、僕も嬉しい」


ノアのまっすぐな言葉に、マレアは鼓動が早くなるのを感じた。

王都の書店で縁談相手とは知らずに出会い、領事館で再会し、夜会で一緒に踊った。

ノアはいつでも穏やかで。

でも、彼の瞳に宿った好きなものに向けられた情熱、マレアの知らなかった表情。

そういうものにマレアは圧倒されていた。

気持ちの変化をノアに悟られないように、彼女は小さく息を吐いた。


その夜、マレアは自室の窓辺に座り、今日のことを思い返していた。


ノアの笑顔。

シリウスの額にある白い星。

厩舎に響いていた馬たちの蹄の音。


彼には、彼自身が思い描く未来がある。

父の商売を支えながら、いつか自分の牧場を持ち、馬を育てる。

その未来を語るノアは、とても生き生きとしていた。

マレアは膝の上で指を組んだ。


もし、ノアと結婚したら。

ふいに浮かんだ考えに、自分でも驚いた。

ノアがアステリアに来ることになったら、彼はどんな暮らしをするのだろう。

港から少し離れれば、牧草地にできそうな場所もあるだろう。

彼が望むなら、馬を育てるための土地を用意することもできるかもしれない。


朝、彼が厩舎へ向かう。

自分は頭領として島の仕事をする。

夕方になれば、彼のところへ顔を出して、育てている馬の話を聞く。

そんな暮らしを想像すると、思いのほか自然な景色に思えた。


けれど、そこでマレアは考え込んだ。

自分は、本当に頭領になりたいのだろうか。

母から受け継ぐものを守り、島の人々と生きていく。

それは、自分にとって大切なことだ。

母のように迎え人を迎えることも、いつか自分の人生におとずれるのだろうか。

ノアは、迎え人としてアステリアを選ぶのだろうか。

彼には王都での暮らしがあり、フェアチャイルド家の商売がある。

そして、何より自分の夢がある。

それを手放して欲しいとは思わなかった。

ノアが馬を愛するように、自分もアステリアを愛している。

どちらか一方が、もう一方の大切なものを諦めるのではなく、一緒に生きていく方法はないのだろうか。


母と父は、どうやってそれを見つけたのだろう。

マレアは、幼い頃に見た両親の姿を思い出した。

父は海を愛していた。

母は島を愛していた。

二人は違うものを大切にしながら、同じ場所で生きることを選んだ。

それは、簡単なことではなかったはずだ。


「……彼は、どう思うのかしら」


誰にも聞こえない声で呟いた。

彼に尋ねてみたい気持ちはあった。

けれど、今はまだ早い。

二人は互いを知り始めたばかりなのだから。

それでも、今日のノアの表情が忘れられなかった。

いつかノアと共に暮らす未来を想像した自分に戸惑いながらも、自分の気持ちも彼の気持ちも確かめていきたいと思った。

王都の夜空には、春の星が静かに瞬いている。

いつかノアにも、アステリアの夜の海と降るように見える星空を見せてあげたい。

そのときの彼の笑顔を想像するとマレアの胸は温かくなった。






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