第69話 春の夜に
カイルは、広間の端に立ち、手にしたグラスを傾けていた。
王都の夜会には慣れている。
父に連れられて顔を出していた若い頃から、海軍に身を置いていた時代まで、こうした社交の場は幾度となく経験してきた。誰が誰に近づき、どの家とどの家が結びつこうとしているのか。笑顔の裏にある思惑を読むことも、今ではさほど難しくない。
けれど、今夜のカイルには、そうしたことより気にかかるものがあった。
広間の向こうに、娘の姿がある。
淡い海の青をまとったマレアは、燭台の光を受けて、まるで春の海そのもののようだった。
青緑色の瞳は、母親から受け継いだものだ。
ふと笑ったときの表情には、ダイアナの面影がある。
しかし、その笑顔の奥にある少し大胆な好奇心は、カイル自身を思わせた。
いつの間に、あれほど大人びたのだろう。
カイルはグラスを口元に運びながら、胸の内で小さく息をついた。
ついこの間まで、海辺を走り回っていた子どもだった気がする。
転んで膝を擦りむき、泣くのを我慢して父のところへ来た幼い娘。
船の甲板で潮風を受けながら、海を眺めていた幼い横顔。
その娘が、王都の夜会で一人の若者と向き合っている。
ノア・フェアチャイルド。
カイルは彼を初めて見たときから、注意深く観察していた。
彼は決して華やかな男ではない。
濃紺のテールコートに、淡いシルバーグレーのベストを合わせている。
装いは整っているが、必要以上に人目を引こうとはしない。
人と話すときは相手の目を見る。
年長者に対して礼を尽くしながらも、卑屈にはならない。
商談の場でも、自分の考えを持っていることが伝わってきた。
そして何より、マレアに接するときの態度が良かった。
彼女の言葉を遮らず、興味を持って耳を傾ける。
自分の知識をひけらかすこともなく、かといって娘を子ども扱いすることもない。
カイルはそれを好ましく思っていた。
今夜、ノアはマレアと踊る約束をしている。
それは両家の間で進められている縁談とは別に、二人自身が交わした約束でもあった。
もちろん、その縁談はまだ公にはなっていない。
王都におけるマレアとカイルの滞在には、フェアチャイルド家の商船建造に関する相談という表向きの理由がある。娘の将来についての話は、ごく限られた者だけが知っていた。
カイルは、二人がどのような関係を築いていくのか、急がず見守るつもりだった。
そのときだった。
広間の入り口付近に、ひときわ目を引く若者が表れた。
アドリアン・ヴェルナー。
カイルはその姿を認めると、わずかに目を細めた。
プラチナブロンドの髪に、青灰色の瞳。年齢に比して背が高く、端正な顔立ちをしている。
父親のヴィクトルに付き添って王都の社交に出席する姿は、すでに一人前の貴公子を思わせた。
彼が広間に入ると、何人かの令嬢が振り返った。
囁き声が聞こえる。
ヴェルナー家のご子息だとか、ずいぶん立派になられたとか。
アドリアンは慣れた様子で挨拶を返していたが、その視線は人々の間を抜け、ある一点で止まった。
マレアだった。
カイルはその一瞬を見逃さなかった。
アドリアンの表情が、ほんの少し変わった。
社交の場にふさわしい微笑みを浮かべている。
それでも、彼の目には、懐かしさとも切なさともつかない感情が宿っていた。
マレアとアドリアン。
この二人には、王都の人間には分からない時間がある。
マレアが十歳の時に、アドリアンは島を訪れていた。
あの少年は、島を去った後も、娘を忘れなかったのだろう。
カイルには、それが分かる気がした。
しかし、今夜のマレアの隣には、別の若者がいる。
ノアだった。
ノアとアドリアン。
二人は以前から顔を知っている。
交易や社交の場で何度か顔を合わせていたはずだ。
お互いに礼儀正しく接している、何の問題もない。
けれど、カイルには二人の間に流れる空気が分かった。
互いに何かを察している。
ノアはマレアとアドリアンの間にあるものを知っているわけではない。
それでも、ふたりの再会に、単なる幼馴染以上の感情が含まれていることにきづいているのだろう。
一方のアドリアンも、ノアがマレアに向ける視線を見ている。
若い男同士の、言葉にならない探り合い。
カイルは思わず苦笑した。
若いというのは、なかなか難しいものだ。
ノアが、マレアに何かを告げ手を差し出した。
マレアは一瞬だけアドリアンの方を見た。
そして、ノアの手に自分の手を重ねた。
その動作は自然だった。
迷いがまったくなかったわけではないだろう。
けれど、彼女は自分の意思でノアの手を取った。
ノアはその手を大切に扱うように支え、踊りの輪へと歩いていく。
二人の背中が、燭台の光の中へ遠ざかっていった。
カイルは、娘の後ろ姿を見送った。
そのとき、視界の端にアドリアンの姿が入った。
彼は動かなかった。
ただ、マレアとノアが踊りの輪に入っていくのを見つめていた。
表情は崩れていない。
けれど、握られた手の指先が、わずかに強張っている。
カイルは彼の横顔を見た。
かつて、島の浜辺でマレアの後を追いかけていた少年。
海辺で貝殻を拾い、彼女のために何かを探していた少年。
今では立派な若者になった。
おそらく彼の中には、彼自身にも整理しきれないほどの思いがあるのだろう。
カイルは彼を責める気にはなれなかった。
誰かを想う気持ちは、家柄や縁談や大人たちの都合で、簡単に片づけられるものではない。
しかし、娘の人生は娘のものだ。
そこに父親ができることは、道を決めてやることではない。
彼女が自分で選ぶのを待つことだ。
カイルは、ふと妻のことを思い出した。
ダイアナもまた、かつて自分の人生を自分で選んだ。
島を背負う者として、誰かに決められた道を歩むのではなく、自分の意志で未来を選んだ女性だった。
そして自分もまた、彼女のいるアステリアを選んだ。
だからこそ、マレアにも同じ自由を持っていて欲しいと思う。
ノアが娘にふさわしい若者であることを、カイルは認めている。
だが、それだけでは十分ではない。
ノアがマレアを愛するように、マレアもまた彼と生きていきたいと思えるかどうか。
それが大切だった。
曲が終わりに近づく。
ノアはマレアの歩調に合わせ、最後の旋回を終えた。
娘の頬には、淡い紅が差している。
ノアが何かを話すと、マレアは顔を上げて笑った。
その笑顔を見て、カイルの胸に温かなものが広がる。
ああ、あの子は楽しんでいる。
それなら、今はそれでいい。
けれど、踊り終えた二人の元へ、アドリアンが歩み寄っていくのが見えた。
ノアは彼の接近に気づき、マレアの手をそっと離した。
マレアがアドリアンを見上げる。
三人の間に、短い沈黙が生まれた。
遠くからでは会話の内容まではわからない。
ただ、アドリアンがマレアに向ける眼差しは先ほどよりもずっと真剣だった。
ノアはその様子を見ている。
そして、彼は何も言わなかった。
無理に割って入ることもせず、娘を自分の側へ引き寄せることもしない。
カイルはその姿を見ながら、ノアという若者をもう一度評価した。
待つことのできる男なのかもしれない。
相手の心に、自分の知らない時間があると認められる男。
それは、簡単なことではない。
やがてカイルは、広間の向こうにいる娘から視線を外した。
夜会はまだ続く。
春の夜は長く、若い三人の間には、これからいくつもの言葉と沈黙が生まれるだろう。
マレアはまだ十六歳だ。
恋を知り、迷い、誰かを傷つけることを恐れ、それでも自分の心と向き合っていく年頃だ。
父親として、できることは多くない。
カイルは再びグラスを手に取った。
「……ずいぶん大人になったな」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
その声には、誇らしさと、ほんの少しの寂しさが混じっていた。
いつか娘は、アステリア島を離れ、誰かと人生を歩むのかもしれない。
けれど、どこへ行こうとも、あの子の中にはアステリアの海がある。
自分がそうであるように。
今夜は、まだ何も決めなくていい。
ただ、あの子が自分の心に嘘をつかずにいられるように。
それだけを願っていた。




