第68話 見送る背中
夜会の広間には、弦楽器の優雅な音色が満ちていた。
シャンデリアの光が磨き上げられた床に揺れ、色とりどりのドレスが花のように広がっている。
アドリアンは、広間の片隅に立っていた。
ノアの手を取って、嬉しそうに踊りの輪の中に戻っていったマレアの背中を見送った。
淡い海の青をまとったマレア。
幾重にも重ねられた薄い布が小さな波のように優雅に動く。
ゆるく結われた濃い栗色の髪には、繊細な銀の髪飾りが添えられ、青緑色の瞳がシャンデリアの灯りを受けて輝いている。
美しくなった。
そのことは、再会した時からわかっていた。
けれど、今夜の彼女は、また違って見えた。
大勢の人に囲まれていても、誰かの目を気にしている様子はない。
相手の話に耳を傾ける時の表情も、笑うときの仕草も、どこか自然で彼女らしかった。
アドリアンは、そんなマレアを見つめながら、幼い頃の記憶を思い出していた。
海辺で拾った貝殻。
二人で交わした、また会おうという約束。
あの頃は、再会する日がくることを疑わなかった。
そして、いつかまた会えたなら、今度こそもっと長く一緒に過ごせると思っていた。
「アドリアン様」
声をかけられ、彼は視線を移した。
令嬢が微笑みながら、次の踊りを申し込もうとしている。
「申し訳ない。休んでいるところなんだ」
丁寧に断り、再び広間へ目を戻した。
ちょうどそのときだった。
ノアが彼女に何かを話しかけている。
マレアが微笑んだ。
ノアも笑った。
その声は、楽団の音に紛れて、アドリアンのところまでは届かない。
ノアは彼女の手を優しく包み、もう片方の手を彼女の背に添えている。
淡い海の青と、濃紺のテールコート。
並んだ二人の姿は、まるで最初からそこにあるべきものだったかのように、夜会の光景に溶け込んでいた。
アドリアンは、マレアの背中を見送った。
胸の奥が、ひどく静かだった。
嫉妬という言葉だけでは足りない。
彼女が誰かと踊ることなど、当然ある。
自分だって、今夜は何人もの令嬢から誘いを受けていた。
それなのに、彼女の手を取ったのが自分ではなかったことがこんなにも苦しい。
ノアは、彼女の歩調に合わせていた。
マレアが笑うと、まるでその笑顔を大切にするように、穏やかに微笑みを返した。
その様子を見て、アドリアンはマレアとノアの間に何か特別なものがあることに気づいてしまった。
彼は、彼女を大切にしている。
「……そういうことか」
小さく呟いた声は、自分にしか聞こえなかった。
マレアがノアを見上げる。
その横顔に、アドリアンの知らない表情が浮かんでいた。
自分がアステリアを去ってから、彼女は成長した。
自分の知らない場所で、知らない人々と出会い、たくさんの時間を重ねてきた。
自分は、あの海辺の約束のところで、ずっと立ち止まっていたのかもしれない。
あの日のマレアを、心のどこかで待ち続けていた。
けれど、彼女はもう、あの日の少女ではない。
楽団の音楽に合わせ、ノアの手に導かれた、マレアの青いドレスが軽やかに広がる。
アドリアンは目を伏せた。
忘れたくないと思った。
今夜の彼女の姿も、再会した時の声も、幼い頃の約束も。
「レア…」
口にしたのは、昔からの呼び名だった。
もう一度、彼女の姿を見た。
今度は、目を逸らさなかった。
その夜、彼は初めて知った。
その背中を見送った時、マレアが自分にとってどれだけ大切な人だったのかを。




