第67話 夜会
ハーウッド伯爵の王都邸で催される夜会は、春の王都でもひときわ華やかなものだった。
王都の名門貴族たちが集うこの夜会には、古くからの家柄を持つ伯爵家や侯爵家の人々に加え、
王都の交易や商業を支える有力者たちも招かれていた。
広々とした大広間には、幾重にもシャンデリアが輝き、磨き上げられた床に金色の光を落としている。
壁際には色とりどりの春の花々が飾られ、弦楽器の奏でる優雅な音楽が、華やかなざわめきに溶け込んでいた。
その夜、カイルと共にハーウッド伯爵邸を訪れたマレアは、いつもとは違う装いに身を包んでいた。
淡い青緑色のドレスだった。
深い海の色を思わせる青ではなく、春の朝、陽の光を受けた浅瀬のような、透明感のある色合い。
胸元から腰に掛けては繊細な銀糸の刺繡が施されていた。裾に向かって柔らかな布が幾重にも重なっている。動くたびに、光を含んだ波のように揺れた。
袖は肩から細く流れ、手首のあたりで小さな真珠のボタンに留められている。
首元には、母から借りた真珠のネックレス。耳にはそれと揃いの真珠の耳飾りが揺れていた。
髪は濃い栗色の長い髪を後ろで緩やかにまとめ、後頭部に柔らかな編み込みを添えている。
残した髪が頬の両側にひと房ずつ流れ、まとめた髪には小さな銀の髪飾りが留められていた。
青緑色の瞳が、シャンデリアの光を受けて澄んでいる。
母譲りの顔立ちに、父から受け継いだ濃い栗色の髪。
華やかな装いでありながら、どこか自然体で、飾らない美しさがあった。
「よく似合っている」
領事館を出る前に、カイルは娘を見てそう言った。
「本当?」
「ああ。お母様にも見せてやりたいな」
その言葉に、マレアは嬉しそうに笑った。
今夜の彼女は、アステリアの頭領の長女、次代を担う可能性のあるものとして王都の人々に紹介される立場でもある。
けれど、まだ十六歳の娘でもあった。
その両方を、彼女は少しずつ身につけようとしていた。
大広間に入ると、カイルにはすぐに何人もの人々が声を掛けてきた。
アステリアとの交易に関心を持つ貴族や、海運に携わる商人たちである。
マレアも父の隣で挨拶を交わし、穏やかな笑顔で応じていた。
そのときだった。
「マレア嬢」
聞き覚えのある声がした。
振り向くと、そこにノア・フェアチャイルドが立っていた。
黒髪はきちんと整えられ、額にかかる髪がわずかに柔らかな印象を残している。
茶色の瞳は、いつものように穏やかだった。
今夜の彼は、濃紺の礼装を身に着けていた。
上着は身体に合わせて仕立てられ、襟元と袖口には控えめな銀糸の装飾がある。
白いシャツに淡い銀灰色のクラバットを合わせ、胸元にはフェアチャイルド家の紋章をあしらった小さなブローチ。
華美ではないが、上質な仕立てと落ち着いた品格が感じられた。
「こんばんは、ノア様」
「こんばんは。今夜はお会いできて嬉しいです」
「私もです」
ノアの視線が、ほんの一瞬だけマレアのドレスに向けられた。
「とてもよくお似合いです。
その色は、アステリアの海を?」
「ありがとうございます。ええ。アステリアの海の色です。
この色が好きなんです」
「いつか、僕もアステリアの海を見てみたい。
そのドレスの色を僕も好きになるでしょう」
マレアは少し照れたように笑った。
その言葉には、特別な響きがあった。
しかし、二人の間にあるものを、周囲の人々が知ることはない。
フェアチャイルド家とアステリアの間で縁談が進んでいることは、まだ非公式な段階で留められていた。
今夜も二人は、あくまで交易を通じて親しくなった家同士の若者として振舞っている。
カイルは少し離れたところから二人を眺めていた。
ノアはマレアの言葉を遮らず、彼女が話すときにはきちんと目を向ける。
周囲に人が集まっても、マレアを置き去りにすることはなかった。
カイルはグラスを手にしたまま、静かにその様子を見守っていた。
「お父様?」
マレアがこちらを振り返る。
「少しノア様と話してくる」
「ああ。楽しんでおいで」
ノアはカイルに向かって丁寧に一礼した。
「お嬢様をお預かりしてもよろしいでしょうか」
「マレアが望むなら」
カイルの返事に、ノアは小さく微笑んだ。
二人が広間の中央へ戻った頃、入り口付近に人の動きがあった。
新たな招待客が到着したらしい。
ヴィクトル・ヴェルナー。
王都でもフェアチャイルド家と並ぶ有力な交易商ヴェルナー商会を支えながら、一目置かれる存在だった。
その隣に立つ若者に、幾人もの視線が集まった。
アドリアンだった。
プラチナブロンドの髪は燭台の光を受けて淡く輝き、青灰色の瞳は静かな冬の空を思わせる。
漆黒の礼装は、長身の彼をいっそう引き立てていた。
十六歳とは思えないほど背が高く、整った顔立ちには少年らしさを残しながらも、どこか大人びた雰囲気があった。
「まあ…」
近くにいた令嬢の一人が、思わず小さく声を漏らした。
「なんて美しい方なの」
「以前お見かけした時より、ずっと大人びてらっしゃるわ」
囁き声は、アドリアンが進むにつれて広がっていった。
何人もの令嬢が彼に視線を向け、知り合いを通じて紹介を受けようとする様子さえ見られた。
しかし、当の本人は周囲の視線にさほど関心を示さなかった。
父に促されれば礼儀正しく挨拶をし、話しかけられれば穏やかに応じる。
けれど、その青灰色の瞳は、時折、広間の向こうへと向けられていた。
誰かを探しているようだった。
「アドリアン」
ヴィクトルが低い声で呼んだ。
「今夜は私の傍を離れすぎるな。紹介したい方もいる」
「分かっています、父上」
そう答えながらも、アドリアンの視線は広間を巡っていた。
そして、彼は見つけた。
淡い青緑色のドレス。
濃い栗色の髪。
人々の間で、誰かと微笑みながら話をしている少女。
一瞬、息が止まった。
――レア
声には出さなかった。
あの日、アステリアの海辺で貝殻を拾い、小さな約束を交わした少女。
あれから何年も経っている。
けれど、見間違えるはずがなかった。
アドリアンの表情が、ほんのわずかに変わった。
最後の旋律が、広間の天井にゆっくりと消えていった。
ノアはマレアの手を取り、曲の終わりに合わせて静かに一礼した。
「ありがとうございました、マレア嬢」
「こちらこそ。とても楽しかったわ」
マレアは微笑んだ。
踊りの間、ノアは終始穏やかだった。
彼女が足取りを迷わせれば自然に歩調を合わせ、会話が途切れれば、無理に言葉を探すこともなく微笑んでいた。
「少し休まれますか?飲み物をお持ちしましょう」
「ありがとう。でも、少しお父様のところへ行ってくるわ」
「分かりました。では、また後ほど」
ノアは彼女の手を離した。
その指先が離れるのを、ほんの一瞬だけ惜しく感じながら。
マレアはドレスの裾を整え、父の姿を探すように広間を見渡した。
そのときだった。
「……レア?」
聞き覚えのない声だった。
けれど、どこか懐かしい響きがあった。
「以前、お会いしたことがありましたか?」
その問いに、アドリアンは少しだけ笑った。
「ありますよ。海辺で」
マレアの表情が止まる。
海辺。
その言葉に、遠い記憶の扉がわずかに開いた。
「もしかして……アディ?」
アドリアンの顔に、今度こそはっきりと笑みが浮かんだ。
マレアの顔には懐かしさと驚きがあった。
「アディだと気づかなかったわ。
手紙では南方の港にしばらく滞在すると書かれていたから王都では会えないと思っていたの」
アドリアンは、マレアから視線がはずせなかった。
「とても素敵になった」
マレアは少し頬を赤らめた。
「ありがとう」
その様子を、少し離れた場所から眺めている令嬢たちがいた。
「あら、ヴェルナー家のご子息、アステリアのご令嬢と知り合いなのね」
「親しそうだわ」
「以前からのお付き合いなのかしら」
扇の陰で、また小さな声が交わされる。
その中には、アドリアンに話しかける機会をうかがっていた令嬢もいた。
彼の視線がマレアに向けられていることに、気づいた者もいる。
華やかな夜会の一角で、静かに何かが動き始めていた。
そして、その少し離れた場所にノア・フェアチャイルドの姿があった。
ノアは、アドリアンの顔を知っていた。
何度か社交の場で顔を合わせたことがある。
年齢も近く、互いの家の交易上の付き合いもあった。
アドリアンもまた、ノアの存在に気づいた。
二人の視線が、ほんの一瞬だけ交差する。
その頃、少し離れた場所で、ヴィクトルがカイルに声をかけていた。
「今夜は賑やかな夜になりそうですな」
カイルはグラスを手に、娘の方を見た。
「そうですね」
短い返事のあと、彼はノアとアドリアンを順番に眺めた。
どちらも若い。
どちらも礼儀をわきまえている。
だが、娘を見る目は同じではなかった。
カイルは小さく息をついた。
今夜は、少し注意して見ておく必要がありそうだった。
大広間では、次の曲が始まろうとしていた。
そして、ノアはマレアに歩み寄った。
「マレア嬢、次の曲も僕とご一緒していただけませんか」
マレアはカイルを探したが、ヴィクトルと話していたので差し出されたノアの手を取った。
その言葉を聞いたアドリアンは、ほんのわずかに目を伏せた。
再会したばかりなのに。
まだ、話したいことがたくさんあるのに。
彼女と踊る約束をしているのは、自分ではなかった。
その背中を見送るアドリアンの胸に、幼い日の約束とは違う、初めての感情が静かに広がっていった。
彼はまだ知らかった。
あの海辺で交わした小さな約束が、今夜から自分にとって、思い出では済まなくなることを。
そして、ノアもまた、彼女の手を取ったまま、一度だけ振り返った。
アドリアンはまだ、こちらを見ていた。
ノアは何も言わず、マレアをエスコートして踊りの輪へと進んでいった。
華やかな音楽の中で、三人の夜が始まった。




