第66話 春の庭
マレアとノアが領事館で再会してから、三日が過ぎた。
王都には、春の盛りが近づいていた。
石畳の道沿いには淡い色の花が咲き、貴族たちの邸宅では、冬の間閉ざされていた庭園が少しずつ人を迎え始めている。
マレアは、朝食を終えたばかりの居間で、一通の招待状を手にしていた。
封蝋には、フェアチャイルド家の紋章が刻まれている。
「フェアチャイルド家からか」
向かいに座るカイルが、紅茶のカップを置いた。
「先日の領事館での商談のお礼を兼ねて、お茶に招待したいって。
お父様もご一緒に、と」
「表向きは商船の造船に関する話だろうな」
マレアは招待状に視線を落とした。
領事館でノアと再会した時のことを思い出す。
書店で出会った年上の少年が、フェアチャイルド家の次男だった。
そして、自分の縁談相手だった。
驚きはしたけれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
むしろ、あのとき本を手渡してくれた彼と、もう一度話せたことが嬉しかった。
「マレア」
父の声に顔を上げる。
「おまえは、どうしたい?」
「行きたいです」
思ったよりも早く答えが出た。
カイルは娘の顔を見つめ、それからわずかに目元を和らげた。
「そうか。なら、行こう」
それだけだった。
娘の縁談だからと言って、父親が先回りして相手を決めるつもりはない。
けれど、相手がどんな人間なのかを見極めることは、父として怠るつもりはなかった。
「ただし、俺もよく見ている」
「ノア様を?」
「フェアチャイルド家もだ」
マレアは小さく笑った。
「お父様らしい」
「当然だ」
カイルはそう言って、再び紅茶に口をつけた。
窓の向こうでは、春の風に庭の木が揺れていた。
マレアは招待状を大切に封筒へ戻した。
その日が来るのを、少しだけ心待ちにしながら。
フェアチャイルド家の邸宅は、王都の中心から少し離れた、静かな街区にあった。
華美な装飾を競うような貴族の邸宅とは違い、落ち着いたレンガ造りの建物だった。
玄関へ続く道の両側には手入れの行き届いた植え込みがあり、庭には春の花が咲いている。
馬車が玄関に止まると、使用人がすぐに扉を開いた。
出迎えたのは、フェアチャイルド家の当主エドワードだった。
「ようこそ、お越しくださいました。
お待ちしておりました」
「お招きいただき感謝する」
カイルが手を差し出す。
エドワードはその手を握り、穏やかに笑った。
「私どもこそ、アステリアとのご縁を大切にしたいと思っております」
その言葉には、商人としての計算だけではない響きがあった。
エドワードは、マレアへと向き直る。
「マレア嬢、先日は息子が領事館でお世話になったようですね」
「いいえ。私の方こそ、楽しい時間を過ごさせていただきました」
「それは、何よりです。ノアも、あなたとお話しできたことを喜んでおりましたよ」
マレアは、ほんの少しだけ頬を染めた。
その様子を見て、エドワードの目元に笑みが深まる。
「さあ、中へどうぞ。」
案内された応接間には、春の日差しが満ちていた。
窓辺には淡い色の花が飾られ、テーブルには銀のティーポットと、焼き菓子を載せた皿が並んでいる。
そして、窓のそばには黒い髪に、柔らかな瞳、仕立ての良い上着を着ているが、領事館で会った時と同じ気負いのない雰囲気のノアがいた。
「お待ちしておりました」
応接間の扉から、エドワードも姿を現した。
カイルとエドワードは、早速、造船や交易についての話を始めた。
表向きの招待の目的は、フェアチャイルド家の商船をアステリアで建造することについて、さらに意見を交換することだった。
そのため、茶会には両家の大人たちも同席していた。
けれど、話がひと段落すると、エドワードは息子に目を向けた。
「ノア。折角お越しいただいたのだ。
マレア嬢に庭を案内して差し上げなさい」
「承知しました」
ノアはマレアへ向き直った。
「よろしければ、ご案内します」
「ぜひ」
マレアは父を振り返った。
カイルは、ほんのわずかに顎を引いた。
行っておいで、という合図だった。
マレアは嬉しそうに微笑み、ノアと共に庭へ出た。
二人の後ろ姿が木立の向こうへ消えるまで、カイルは黙って見送っていた。
「お嬢様は、島でどのようにお過ごしでしたか?」
隣に立つエドワードが尋ねた。
「海と本が好きで、興味を持ったものには、驚くほど夢中になる」
「ノアから聞いております。書店での出会いが、よほど印象に残ったようです」
カイルはエドワードを見た。
「ほう」
「領事館から戻ってから、私もすでに二人が書店で出会っていたと聞いて驚きました」
エドワードは穏やかに笑った。
庭の向こうから、マレアの笑い声が聞こえた。
あの声は、島でもよく響いていた。
美しい貝殻を見つけたときも、読みたかった本を手に入れたときも、彼女はいつもあんな風に笑う。
王都へ来てからも、それを失っていないことに、カイルは少し安堵していた。
「……息子さんが、娘の性分を面白いと思ってくれるならいい」
カイルは静かに言った。
「ただし、娘は誰かの期待に合わせて生きるために育ててきたわけではない」
「承知しております」
エドワードの返事に、軽さはなかった。
「だからこそ、ノアには相手を良く知る時間が必要だとも考えています。
縁談は家同士のものでも、共に生きるのは二人ですから」
カイルは、その言葉を聞いて、初めてわずかに表情を和らげた。
「それなら、話は早い」
二人は再び商船の造船の話に戻った。
庭に出ると、少し冷たい春の風が頬を撫でた。
石畳の小径の両側には、手入れの行き届いた花壇が続いている。
淡い桃色のチューリップや、黄色い水仙が春の陽気に揺れていた。
「王都の春は、アステリアより少し早いのでしょうか」
「どうでしょう。島では海風が強いですから、花の咲く時期は場所によって違いますね。
でも、春の訪れを感じるのは、やはり島の方が早い気がします」
「海の近くで育つと、季節の感じ方も違うのでしょうね」
「ええ。島では、花が咲くことだけでなく、海の色や風の匂いでも季節がわかるんんです」
マレアは歩きながら、庭の向こうに見える大きな木を眺めた。
「あの木はずいぶん古そうですね」
「あれは樫の木です。祖父が子どもの頃にはもう大きかったそうです」
「では、ずっとこの庭を見守ってきてのですね」
「そういうことになりますね」
ノアは木を見つめた。
「僕も子どもの頃、よくあの木に登りました。
母には叱られましたけど」
「ノア様が?」
マレアが意外そうに振り返る。
「今のノア様からは、あまり想像できません」
「僕も子どもの頃は、今ほど聞き分けが良くなかったんですよ」
「ふふ。どんな子どもだったのかしら」
「それは、あまり詳しくお話ししない方が良さそうですね」
ノアが少し困ったように笑うと、マレアも声を立てて笑った。
その笑顔にノアは胸がくすぐったくなるような感覚を覚えた。
小径を進むと、庭の奥に小さな池があった。
水面には枝垂れた柳の緑が映り、池の端には白い小石が丁寧に敷かれている。
「ここは僕のお気に入りの場所なんです」
「静かで、とても落ち着きますね」
「子どもの頃は、ここで本を読んでいました。
屋敷の中にいると、誰かしら僕を探しに来るので」
「ノア様も、一人になりたいことがあったのですね」
「もちろんです。いつも人と一緒にいるのが好きなわけではありませんから」
「わかります。
私も本を読むときは、一人でいたいと思うことがあります」
「マレア嬢も?」
「ええ。でも、面白い本を見つけると、誰かに話したくなってしまうんです。
読み終わる前から、あの場面が素敵だったとか、この人はどうしてこんなことをするのかしらとか」
「それは楽しそうですね」
「そうですか?」
「ええ。僕はそういう話を聞くのも好きですよ」
ノアは池のほとりにあるベンチを示した。
「少し休みませんか?」
二人は並んで腰を下ろした。
しばらく、水面を渡る風の音だけが聞こえていた。
マレアは池を眺めながら、ふと思い出したように口を開いた。
「ノア様は、このお庭がお好きなのですね」
「はい。ここには子どもの頃の思い出がたくさんありますから。
父が忙しくても、母と一緒に庭を歩いたり、兄と遊んだり……。
何でもない日々が、今思えばいちばん懐かしく思えます」
「大切な場所なのですね」
ノアは少しだけ視線を落とした。
「いつか、この家を離れることがあっても、きっと忘れないと思います」
その言葉に、マレアは彼を見た。
「大切な場所と言うのは、離れたからといって失われるものではないと思っています」
「……そうですね」
マレアは小さく頷いた。
アステリアの海や港を思い出す。
遠く離れた王都にいても、故郷への思いが薄れることはなかった。
むしろ、離れたことで、自分がどれほどあの島を大切にしているのかを知った。
ノアの言葉には、どこか自分と通じるものがあるように感じた。
「そろそろ戻りましょうか」
ノアが立ち上がり、マレアに手を差し出した。
マレアはその手を借りて立ち上がる。
ノアはマレアをそっと見た。
彼女は王都の令嬢たちとは違う。
花を見れば足を止め、木の話を聞けばその年月に思いを馳せ、何気ない会話から相手の心にあるものを見つけようとする。
飾らない笑顔も、興味を持ったものに向ける真剣な眼差しも、ノアにはとても新鮮だった。
縁談の相手が彼女で良かった。
初めて書店で会った時から、そう思っていた。
けれど今は、もう少し違う気持ちが芽生えていた。
彼女のことを、もっと知りたい。
どんな本を好み、何に笑い、何を大切にしているのか。
そして、いつか彼女が自分の隣にいることを、当たり前のように思える日が来たらいい。
ノアはいつもの穏やかな笑みを浮かべていたが、ほんの少しだけ姿勢を正した。
「マレア嬢」
「はい?」
「今度開催される夜会では、僕と踊っていただけますか?」
マレアは一瞬、言葉を失った。
縁談相手としての礼儀なのか、そう考えてノアの茶色の瞳と目が合った。
そこには、ただ形式的に申し出ているのではない、彼自身の意思が感じられた。
「私でよろしいのですか?」
「君と踊りたいんだ」
ノアは迷わず答えた。
「最初の一曲を君と踊れたら嬉しいと思っている」
マレアの頬に、かすかな赤みが差した。
「ありがとうございます。喜んで」
その返事を聞くと、ノアは心から嬉しそうに微笑んだ。
風が吹き抜け、花壇の白い花びらが一枚、二人の足元に舞い落ちた。
ノアはそれを見つめてから、再びマレアに視線を戻した。
この庭を案内できたことも、夜会で踊る約束を交わせたことも、彼にとっては思いがけない喜びだった。
けれど、それ以上に嬉しかったのは、マレアが別れ際まで楽しそうに笑っていてくれたことだった。
「そろそろ戻ろうか。お父上もお待ちだろうから」
帰り道、ノアはマレアの歩幅に合わせながら、次の夜会で彼女と踊る姿を思い描いていた。




