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第65話 再会

お気に入りの老舗書店で、一人の少女と出会ってからまだ数日しか経っていなかった。


ノア・フェアチャイルドは、父エドワードとともに馬車に揺られながら、窓の外に目を向けていた。

王都の街並みは、いつもと変わらない。

商人たちが店先に商品を並べ、通りを行き交う馬車が石畳の上を軽やかに走っている。


けれど、ノアの心は、ここ数日、妙に落ち着かなかった。

思い出すのは、あの書店のことだった。

高い書棚の前で、読みたい本に手を伸ばしていた少女。

ようやく本を手にしたときに見せた、嬉しそうな顔。

好きな本について語るときの、少し早口になる話し方。


そして、自分をマレアと名乗ったこと。

彼女がアステリアの頭領の娘であり、自分の縁談相手だと確信した時、ノアはひどく驚いた。

父から聞いていた名前だった。

海の向こうにある島を治める家の長女、いずれ島を継ぐ可能性を持つ娘。

しかし、書店にいた少女は、そんな肩書とは無縁のように見えた。

ただ好きな本を探し、知らない相手との会話を楽しみ、別れ際には少し名残惜しそうに笑っていた。


ノアは、自分がフェアチャイルド家の息子だとは名乗らなかった。

縁談の相手だと知っていることも、もちろん告げなかった。

あの時間を、家同士の取り決めとは関係のないものにしておきたかったからだ。


「ノア」


向かいに座る父の声に、彼は顔を上げた。


「何を考えている?」

「なんでもありません」

「そうか」


エドワードは息子を一瞥したものの、それ以上は追及はしなかった。

今日、二人が訪れるのはアステリアの領事館だった。

フェアチャイルド家の商船をアステリアで造船する。

表向きは、そのための相談と、今後の交易について話し合うことになっている。

そして、父はもう一つの目的を持っていた。


アステリアの頭領の娘、マレアとの縁談である。

ノアは、そのことを十分に理解していた。

理解していたからこそ、父にはまだ話していないことがあった。


自分はすでに、彼女に会っている。

しかも、彼女は自分が縁談相手だと知らないまま、気さくに話してくれたのだ。

その事実を、ノアはしばらく自分だけのものにしておきたかった。


やがて、馬車が止まった。

窓の外には、落ち着いた石造りの建物が見える。

入口にはアステリアの旗が掲げられ、濃紺の布地に銀の海鷲と三本の銀の波が描かれていた。


ノアは、その旗を見つめた。

彼女の故郷の旗。

書店で出会った少女が、いつか帰っていく場所。


「着いたぞ」


父に促され、ノアは馬車を降りた。

領事館の玄関で出迎えを受け、二人は応接室へと案内された。

室内には、海図や交易に関する書類が整然と並んでいた。

窓から差し込む午後の光が、磨き上げられた机の上に細い帯を作っている。


頭領の夫、縁談相手の父親との挨拶を済ませ、造船についての話が始まろうとしたときだった。


「マレア、入っておいで」


その名を聞いた瞬間、ノアの胸が跳ねた。

扉の向こうから、足音が近づいてくる。

扉が開いた。

先に目に入ったのは、淡い光を受けた濃い栗色の髪だった。

少女は室内へ足を踏み入れ、父親の客人に向かって丁寧に一礼した。


「初めまして。

 マレア・アステリアです」


その声を聞いたとき、ノアは確信した。

間違いない。

あの書店の少女だ。


マレアは顔を上げ、交易商エドワードの隣に立つ同じ年頃の少年へと視線を向けた。

黒髪に、陽だまりのような柔らかい茶色の瞳。

すらりとした背丈に、仕立ての良い上着、いかにも王都の若い紳士らしい身なりだった。

初めて会うはずなのに、どこか見覚えがある。


ほんの数日前、古い書店で言葉を交わした少年。

自分が探した本を取ってくれて、好きな本の話を聞いてくれた人。

マレアは思わず目を見開いた。


「あ…」


小さく漏れた声に、ノアは笑みを浮かべた。


「こんにちは、マレア嬢」


まるで、以前から知っていた相手にあいさつするような自然な声だった。

マレアは驚いたまま、彼の顔を見つめていた。


「あなた……この前の書店の…」


言いかけて、マレアは口を閉じた。

彼の名前を知らない。

そういえば、あのとき彼は名乗らなかった。

自分も、姓までは伝えていない。

書店での会話が楽しかったから、名前を尋ねることさえ忘れていたのだ。

マレアは少し困ったように微笑んだ。


「ごめんなさい。

 あのとき、お名前を聞かなかったわね」


そして今、彼女は初めて、自分が何者なのかを知った。

あのときと同じように話してくれるだろうか。

それとも、これからは縁談相手として、自分を見るようになるのだろうか。

ノアには、まだわからなかった。


「驚かせてしまったね」


彼がそう言うと、マレアは微笑んだ。


「いいえ。ただ……不思議ね。

 王都は広いのに、もう会っていたなんて」


ノアは、思わず笑った。


「本当にね」


彼女はまだ知らない。

自分が書店で名乗った瞬間、ノアが何を思ったのか。

あの短い会話の途中で、彼がすでに彼女を縁談相手だと確信していたことも。

ノアは、今ここでそれを明かすつもりはなかった。


「また本の話をしよう、マレア嬢」


ノアが言うと、マレアの顔に、書店で見たのと同じ明るい笑みが戻った。

その笑顔を見ながら、ノアは心の中でそっと思った。


――縁談の相手が、マレアで良かった


商船の造船についての話は、これから始まる。

そして二人の間にもまた、あの日の書店から続く、新しい時間が流れ始めていた。



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