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第64話 王都の老舗書店

ノア・フェアチャイルドは、人に良く笑いかける少年だった。


艶のある黒髪は、朝にきちんと整えても、昼を過ぎる頃には額にかかっていることが多い。

茶色の瞳は明るく、好奇心が表れると、まるで陽だまりを映したように柔らかくなる。

母親に似て品のある端正な顔立ちだったが、親しみやすかった。

そして、年上でも年下でも、身分が高くてもそうでなくても、自然に言葉を交わすことができる。


フェアチャイルド家の次男として生まれ、商家の子息らしい教育を受けてきた一方で、ノアには少しばかり困ったところがあった。


馬が好きなのだ。


商談の席で父や兄が利益や取引先について話しているときも、厩舎に新しい馬が来たと聞けば

ついそちらが気になってしまう。

馬の脚の運びや毛並み、気性の違いを眺めている時間は、帳簿を読む時間よりもずっと楽しかった。


「お前は、馬のことになると本当に楽しそうだな」


以前、厩舎で三つ年上の兄にそう言われたことがある。


ノアは笑って答えた。


「馬は正直だからね。機嫌が良ければ近づいてくるし、嫌なら嫌だとはっきりする」


人も、そうであってくれたらいいのに。

そう思うことはあったが、口にしたことはなかった。


フェアチャイルド家は、王都でも名の知られた交易商の家である。

父は商いに厳しく、利益を見極める目に優れていた。

長男は家業を継ぐ者として早くから父のそばに置かれ、ノアもまた、次男だからと言って自由に生きられるわけではなかった。


それでも、いつか自分の好きな馬を思う存分育てられたら。

そんなささやかな夢を、ノアは胸の片隅に持っていた。

その夢が、少し遠のいたように感じたのは、ある日の夕食の席だった。


父は食事を終えると、手元のナプキンを置き、ノアを見た。


「ノア。お前に話がある」


いつもと変わらない声だった。


ノアは背筋を伸ばした。


「何でしょう、父上」

「アステリアの頭領の長女との縁談が決まった」


一瞬、言葉の意味がわからなかった。


「……アステリアですか?」

「ああ。島の頭領、ダイアナ・アステリアの娘だ。

 名はマレアという」


父は淡々と続けた。

アステリアは交易商の間では、海運と交易で知られる島であり、王都ではヴェルナー商会と繋がりを

持っている。その航路や港との繋がりは、フェアチャイルド家にとっても重要だった。

頭領の家と縁を結ぶことには、商家として大きな意味がある。


ノアにも、それは理解できた。

理解できたからこそ、すぐには何も言えなかった。


「父上は、その方とお会いになったのですか?」

「話は先方と進めてある。お前は次男だ。長男とは違う形で家に尽くすことを考えねばならん」


父の声には、相談の余地を探すような響きはなかった。


「家長である私が決めたことだ。お前には、その意味を理解してもらいたい」


ノアは膝の上で手を組んだ。

次男に求められる役割は、幼いころから知っていた。

兄が父と商談に出かける日、自分は別の仕事を与えられる。

兄が将来の家業について話しを聞く時、自分もまた、別の形で役に立つことを求められる。

家を支えることが大切なのはわかっている。

父の判断が、フェアチャイルド家の未来を考えたものだということも。


けれど、会ったこともない少女との縁談を、もう決まったこととして告げられるとは思っていなかった。


「……お相手は、どのような方なのですか?」


ようやく尋ねた言葉に、父は少しだけ眉を動かした。


「十六歳だと聞いている。頭領の娘として、相応の教育を受けているそうだ」


それ以上のことは、父も詳しくは知らないようだった。

ノアは小さく息を吐いた。

十六歳。

自分より一つ年下の少女。

どんな顔をしているのだろう。何を好み、何を考えているのだろう。

馬が好きかどうかなど、もちろんわからない。

そんなことを考えている自分が可笑しくなり、ノアはかすかに笑った。


「わかりました、父上」


そう答えるしかなかった。

父は満足したように頷き、兄と次の商談の話へと移った。


ノアもいつも通りに応じた。

ただ、その夜は厩舎へ行っても、いつものように心が晴れなかった。


マレア・アステリア。


まだ会ったこともない少女の名前が、思いのほか長く心に残っていた。


数日後。


ノアは王都の古い街並みを歩いていた。

父から頼まれた用事を済ませた帰りだったが、すぐに屋敷へ戻る気にはなれなかった。


石畳の道には、朝から行きかう人々の足音が絶えない。

馬車がゆっくりと通りを進み、商人たちが荷を運び、窓辺には色鮮やかな布が揺れている。


その通りから少し奥へ入ったところに、ノアのお気に入りの書店がある。

何代にもわたって続く、王都でも評判の老舗書店だ。


重厚な木の扉には、長い年月を経て艶を帯びた真鍮の取っ手がついていた。

入口の上には、古い紋章を思わせる彫刻が施され、石造りの外壁には蔦が細く絡んでいる。

扉を開けると、まず正面に大きなステンドグラスが目に入る。


青、深紅、琥珀色、そして淡い緑。


色ガラスを組み合わせた窓には、枝を広げる大樹と、その根元を流れる川、遠くへ続く道が描かれていた。朝の光が差し込むと、色とりどりの光が床に落ち、磨き込まれた木の板の上に、ゆっくりと模様を広げる。


初めて訪れた者なら、思わず足をとめるだろう。

けれど、ノアにとっては、見慣れた景色だった。

何度も通っているのに、あのステンドグラスを見るたびに、少しだけ気持ちが落ち着く。


店内は広く、天井は高かった。

太い木の梁が頭上を横切り、壁一面に設けられた書棚は、二階の回廊まで続いている。

上階へ上がる階段は優雅な曲線を描き、手すりには細かな植物模様が彫り込まれていた。

古い紙の匂いに、磨かれた木の香りが混じっている。


店の奥では、店主が客と静かに話していた。

学者らしい老人が書棚の前で本を選び、上等な衣装をまとった貴婦人が店員に詩集について尋ねている。

商人らしい男は、地図帳を広げ、遠い土地の名前を指で追っていた。


この店には、あらゆる世界がある。

王都の歴史も、異国の風習も、遠い海の向こうの港も。

ノアは、ここへ来ると時間を忘れることがあった。

今日も、いつものように交易史の棚へ向かおうとしていた。


そのときだった。

入口のほうに、人影が動いた。

何気なく視線を向けた、ノアはふと足を止めた。

一人の少女が、扉を入ったところに立っていた。

少女は、目の前に広がるステンドグラスを見上げていた。

まるで、その美しさに心を奪われてしまったかのように。

濃い栗色の髪を腰まで伸ばし、無造作に下ろしている。

淡い色のドレスは上品だったが、華美ではない。

いかにも王都の貴族令嬢という装いとはどこか違って見えた。

青緑色の瞳には、窓から差し込む色とりどりの光が映っていた。


少女はしばらく動かなかった。

店内の広さにも、周囲の人々にも気づいていないようだった。

ただ、目の前のステンドグラスを見つめている。

その横顔には、隠しようのない感嘆が浮かんでいる。

ノアは、なぜか目が離せなかった。


美しい衣装をまとった令嬢も、洗練された物腰の貴婦人も、王都ではいくらでも見かける。

けれど、この少女の表情は、そうした人々とは少し違って見えた。 

誰かに見せるための笑顔ではない。

美しいものを目にした喜びが、そのまま顔に表れている。


少女はやがて、名残惜しそうに視線を下ろした。

そして、ようやく店内を見回した。

その目が書棚を見つけた瞬間、今度は別の驚きが広がる。


天井まで続く本棚。

二階の回廊に並ぶ、無数の背表紙。

見たことのない題名。

異国の言葉で記された書物。

革張りの分厚い本。


少女は、一歩、店内へ進んだ。

その様子を見て、ノアは思わず笑みを浮かべた。


――本が好きなのだろうか。


そう思った。

少女は書棚の間を歩き始めた。

一冊ずつ題名を確かめ、ときどき立ち止まっては、興味深そうに背表紙を眺めている。

急ぐ様子はない。

まるで、ここに並ぶ本の一冊一冊に、まだ知らない世界が詰まっていると知っているかのようだった。

ノアは、ふと自分が何をしに来たのか忘れていることに気づいた。

手に取ろうとしていた本のことも、屋敷へ戻る時間のことも、頭から抜け落ちていた。

少女が向かったのは、地理と交易に関する書棚だった。

その棚には、王都の歴史書のほか、外国の港や航路について記された本が並んでいる。

少女は何冊かを見比べたあと、一冊の本の前で足を止めた。


『七つの港と商人たち』


古い交易史の本だった。

ノアも読んだことがある。

港ごとの商習慣や、商人たちが築いてきた繋がりについて書かれている。

少し難しいところもあるが、読み進めるほど面白くなる本だ。


少女はその題名を確かめると、そっと手を伸ばした。

けれど、本は少し高いところに置かれていた。

指先が届かない。

少女は背伸びをした。

もう少し。

それでも届かず、彼女は困ったように小さく首を傾けた。


ノアは、気づけば歩き出していた。


「その本を取りたいの?」


声をかけると、少女が振り返った。

青緑色の瞳が、まっすぐにノアを見た。

近くで見ると、まだあどけなさの残る顔立ちだった。

けれど、その瞳には好奇心が満ちている。


ノアは笑って、棚の上段に手を伸ばした。


「これだよね?」


本を取り、彼女に差し出す。

少女は両手で本を受け取った。

その瞬間、顔いっぱいに笑みが広がった。


彼は少し驚いた。

王都の令嬢たちは、贈り物を受け取るときも、褒められた時も、

どこか慎重に表情を整えることが多い。

嬉しくても、喜びすぎないように。

驚いても、取り乱さないように。


けれど、目の前の少女は違った。

嬉しいものは嬉しい。

その気持ちが、隠しようもなく顔に表れている。


その笑顔に、ノアは、一瞬、言葉を忘れた。


「それ、最初は読みにくいけど、読み進めると面白いよ」


彼女は、驚いたように彼を見た。


「読んだことがあるの?」

「ああ。少し前にね」

「そうなのね」


彼女は感心したように目を細めた。


「私、ずっと読みたかったの。島には置いていない本だから」

「……島?」


思わず聞き返した。

少女は不思議そうにノアを見た。


「ええ。私、アステリア島から来たの」


アステリア島。

その名を聞いて、彼はほんの少し考えた。

フェアチャイルド家が今、縁談の話を進めている相手も――アステリア島の娘だった。

島から来た人間が、皆、頭領の娘であるはずもない。


「王都には、いつ来たの?」


何気ない調子で尋ねる。


「少し前よ。本もたくさんあるし、初めて見るものも多くて、毎日楽しいわ」


彼女はそう言って、手にした本を大切そうに抱えた。

その仕草が、どこか印象に残った。

着飾った令嬢が、社交の話題を探すように言葉を選ぶのとは違う。

彼女は目の前にあるものに心を動かされ、その喜びをそのまま言葉にしている。


「それで、王都では何をするつもりなの?」


尋ねてから、少し踏み込んだ質問だったかもしれないと思った。

けれど、少女は気にした様子もなく答えた。


「本を読んだり、いろいろな場所を見て回ったりするつもりよ。それから……」


そこで、彼女は少しだけ言葉を切った。


「ある人に会うために来たの」


ノアは彼女を見た。


「ある人?」

「ええ」


その瞬間、彼の中で、いくつかの情報がつながった。

アステリア島から来た少女。

王都に滞在している。

そして、ある人に会うという。


父から聞かされた話。

フェアチャイルド家とアステリア島の間で進められている縁談。

相手はアステリア島の頭領の娘。

年齢は十六歳。

いずれ島の未来を担う立場になるかもしれない。


彼はまだ、その娘の顔を知らなかった。

ただ、父親から名前を聞かされ、家の事情や島のことを説明されただけだ。

けれど、目の前の少女は、十六歳ほどに見える。


もしかして――


「君の名前を聞いてもいい?」


少女は、ためらうことなく微笑んだ。


「マレアよ」


父が話していた少女。

その娘が、今、彼の目の前にいる。

妙な巡り合わせだった。

おそらく、この少女がマレア・アステリアなのだろう。

確信に近いものはあった。

けれど、今ここで家名を尋ね、縁談の相手かどうか確かめる気にはなれなかった。


「また会えたら、その時は……」


ノアは言いかけてやめた。

家同士の都合で決められるかもしれない相手に、もう一度会いたいと思う日が来るとは考えていなかった。

きっと、会える。

その時は、ノア・フェアチャイルドと名乗ろうと思った。




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