第63話 王都への誘い
王都に行く数日前の夕暮れ。
夕暮れの光が、砦の窓辺を淡く染めていた。
マレアは母の向かいに座り、執務室のテーブルに置かれた手紙を見つめていた。
封蝋には見覚えのない家の紋章が刻まれている。
父のカイルは窓際に立ち、母のダイアナは手紙をそっと閉じた。
「マレア。あなたに縁談がきているの」
母の声はいつもと変わらなかった。
マレアは顔を上げた。
「私に?」
「ええ。王都の商家からよ。あなたと同じくらいの年頃の息子さんがいるそうなの」
突然の話に、マレアはすぐには返事ができなかった。
十六歳。
アステリアでは、結婚を考えるにはまだ少し早い年齢だ。
頭領を継ぐ可能性のある者なら、なおさら学ぶべきことは多い。
けれど、縁談そのものを不思議に思うほど幼いつもりもなかった。
「お母様は……どう思うの?」
尋ねると、ダイアナは少し考えてから微笑んだ。
「私たちが決めることではないわ。あなたの人生ですもの」
「そうだ」
窓辺にいたカイルも振り向いた。
「縁談を受けるかどうかは、マレアが決めていい。
会ってみたいなら会えばいいし、気が進まないなら断ればいい」
マレアは両親を見比べた。
父も母も、本当に自分の答えを待っているようだった。
縁談を受けるように勧めるでもなく、早すぎると退けるでもない。
自分で決めていいのだと、二人は言っている。
「……王都に行ってみたいの」
口にした途端、胸の奥にしまっていた思いが少しずつ形を持ち始めた。
「ずっと行ってみたかったわ。
王都には大きな書店があるでしょう?
珍しい本がたくさんあると聞いたわ。
それに、舞踏会や劇場も……アステリアとは違う暮らしを、一度見てみたいの」
ダイアナの青緑色の瞳が、楽しそうに細められた。
「そうね。あなたなら、きっと見るものすべてに興味を持つでしょうね」
「お母様だって、若い頃に島の外へ出てみたいと思ったことはなかった?」
「もちろんあったわ」
母は少し遠くを見るような目をした。
「知らない土地を見てみたいと思ったことも、新しい人たちに会ってみたいと思ったこともあるわ」
「それで、後悔しなかった?」
ダイアナはすぐには答えなかった。
やがて、夫の方へ視線を向ける。
カイルは何も言わず、彼女を見つめていた。
その眼差しに、マレアは幼い頃から何度も目にしてきたものを見つけた。
母が父を見る時の静かな親しさ。
長く一緒に過ごしてきた二人だけが知る、言葉にしなくても伝わる何か。
「後悔していないわ」
母は答えた。
「私は、自分で選んだ人生を生きているもの」
その言葉が、マレアの心に残った。
彼女は両親のことが好きだった。
父と母は、いつも一緒にいるわけではない。父が航海に出ることもあれば、母が政務に追われることもある。それでも、二人は互いを気にかけ、何かあれば自然に相手のもとへ向かう。
時には、二人だけで海を眺めに行く。
帰ってきた母が、父の話をするときの表情。母の姿を見つけた父が、ほんの少しだけ柔らかくなる顔。
マレアは、そういうものをずっと見てきた。
結婚とは、きっと家と家を結びつけるだけのものではない。
同じ時間を生き、嬉しいことがあれば分かち合い、困難な時には隣に立つ。
いつか自分も、そんな相手に出会えたら。
そう思ったことは、一度や二度ではなかった。
「縁談は……まだ早い気もするの」
マレアは正直に言った。
「私は、まだ知らないことがたくさんあるわ。
頭領になるかどうかだって、これから学んで考えていきたいし」
「ええ」
母は頷いた。
「でも、相手の方に会ってみるのは悪くないと思うの。
どんな人なのか、話をしてみたいわ。それに……」
マレアは一度言葉を切った。
少し恥ずかしかったけれど、両親には話しておきたかった。
「お父様とお母様のように、一緒に生きていきたいと思える人に、いつか出会ってみたいの」
部屋が静かになった。
カイルは娘を見つめ、それから小さく息をついた。
「そうか」
それだけ言って、娘のそばに歩み寄った。
「なら、会ってみるといい。
相手を知ることも、自分が何を望んでいるか知ることも、大切だからな」
「お父様は、心配ではないの?」
「心配はする」
あまりにも率直な返事に、マレアは思わず笑った。
カイルも口元を緩めた。
「心配だからと言って、お前の代わりに決めるつもりはない」
この人たちは、自分を守ろうとしてくれている。
けれど、いつまでもこの砦のなかだけで生きて欲しいとは思っていないのだ。
王都には、まだ知らない世界がある。
どんな人たちが暮らし、どんな本があり、どんな考え方があるのだろう。
考えるだけで、胸が弾んだ。
「私、王都へ行ってみたい」
今度は、はっきりと言えた。
「縁談の相手にも会ってみたい。
でも、それだけじゃないの。自分の目で王都を見て、いろいろな人と話をして
知らないことを学びたい」
ダイアナは嬉しそうに娘を見つめた。
「いいと思うわ」
「本当に?」
「ええ。ただし、あなたが何を見て、何を感じたのか、帰ってきたら聞かせてちょうだい」
「もちろん!」
マレアは笑った。
王都へ行く。
それは、縁談を受けると決めたこととは違う。
誰かの妻になるためだけに、自分の故郷を離れるのでもない。
知らない世界を見て、自分自身の未来を考えるために。
そして、いつか両親のように、心から一緒に生きていきたいと思える人に出会うために。
窓の向こうでは、夕暮れの海が静かに光っていた。
この海の向こうに、まだ知らない世界が広がっている。
アステリア島を離れることを思うと少しだけ寂しくて、それ以上に胸が高鳴った。
まだ、何も決まっていない。
だからこそ、自分で選んでいけるのだ。
マレアは、もう一度両親を見た。
「私、王都でたくさんのことを学んでくるわ」
ダイアナは微笑み、カイルは静かに頷いた。




