第62話 ある晩
春。
アステリアの港には、交易船が次々とやってくる。
春から夏にかけては、島にとって一年でもっとも忙しい季節だった。
ダイアナは頭領として、また十二歳になったエリアスと十一歳になったセレスの世話をするために島に残ることになった。
王都へ向かうのは、カイルと十六歳のマレアだけ。
出発が近づいたある晩、ダイアナは執務室で王都から届いた招待状を眺めていた。
「ねえ、カイル。
王都の夜会というのは、そんなに頻繁に開かれるものなの?」
「季節によるな。春は特に多い」
「あなた、ずいぶん詳しいのね」
「父に連れられて何度も出席したからな」
ダイアナは顔を上げた。
「何度も?」
「そうだ」
「………あなた、夜会で踊ったこともあるの?」
「ある」
あまりにあっさり答えられ、ダイアナは目を丸くした。
「まあ、初めて聞いたわ」
「聞かれなかったからな」
「だって、あなたが夜会で令嬢たちと踊っていたなんて、想像もしなかったもの」
「俺だって、必要があれば踊る」
カイルは平然としている。
ダイアナは、夫の若い頃を思い浮かべようとした。
濃い栗色の髪に、琥珀色の瞳。
背が高く、落ち着いた物腰。
今でも十分に人目を引く男なのだから、若い頃はさぞ目立ったことだろう。
「それで?どんな令嬢と踊ったの?」
「覚えていない」
「嘘でしょう?」
「本当に覚えていない。名前を覚える必要もなかったし」
ダイアナは呆れるように笑った。
「あなたらしいわね」
「それに、夜会では踊ることよりも面倒なことの方が多かった」
「面倒?」
カイルは少し考えてから、昔の出来事を話し始めた。
ある夜会で、父親の仕事相手にあたる貴族の令嬢から、何度も踊りを申し込まれたことがあったという、
断る理由もなく、最初は礼儀として応じた。
ところが、その令嬢は踊り終わるたびに、次の曲も、その次の曲もと、申し出てきた。
「最後には、父に助けを求めた」
「まあ!」
ダイアナはとうとう声を上げて笑った。
「あなたが助けを求めるなんて!」
「笑い事じゃないのに、父は俺を見て笑っていた」
「お父様もひどいわね」
「俺もそう思った」
「それで、どうしたの?」
「次の曲が始まる前に、父が別の貴族に俺を紹介した。
そのまま商談の席に連れていかれた」
「商談?」
「ああ。おかげで逃げられた」
ダイアナは笑いながら、夫の顔をまじまじと見つめた。
「あなた、そんなことを経験していたのね」
「王都では珍しいことでもない」
「私には珍しいわ。だって、私は夜会に出たことすら、ほとんどないのよ」
そう言ってから、ダイアナはふと、遠い昔を思い出した。
若い頃。彼女のもとにも縁談は届いた。
王都の貴族からの申し入れもあれば、交易を通じて知り合った家からの紹介もあった。
けれど、当時のダイアナは島のことで頭がいっぱいだった。
父を亡くし、若くして頭領になり、島の港と交易を守らなければならなかった。
夜会に出て、知らない貴族たちと笑顔を交わし、誰かの妻になるために相手を探すことに、心が動かなかったのだ。
「私は、縁談の手紙を読んで断るだけだったわ。王都の社交界がどんな場所なのか
知ろうともしなかった」
「お前らしい」
「でも、あなたは違ったのね」
「俺は父の仕事に同行していた。
海軍関係者や交易商人と会う機会もあったからな。
夜会もその延長のようなものだ」
ダイアナは、少しだけ考え込んだ。
「……もし、あの頃の私が王都の夜会に出ていたら、あなたと出会っていたのかしら?」
何気なく口にした言葉だった。
けれど、カイルは妻を見つめ、静かに答えた。
「出会っていたかもしれない」
「そのとき、あなたは私に踊りを申し込んだ?」
「いや」
「どうして?」
「お前は、俺が申し込む前に帰ってしまいそうだからな」
ダイアナは一瞬きょとんとし、それから声を立てて笑った。
「ひどいわ!」
「違うか?」
「……否定できないのが悔しいわね」
二人の笑い声が、静かな執務室に広がった。
やがてダイアナは、机の上に置かれた娘の旅程に目を落とした。
「マレアは、どんな夜会を経験するのかしら?」
「お前に似て、興味のない相手には見向きもしないかもしれないな」
「そうなったら、あなたが困るのではなくて?」
「俺は困らない」
カイルは少し間を置いて、付け加えた。
「ただし、娘に近づく男がどんな人間かは、きちんと見る」
「やっぱり、そこは譲れないのね」
「当然だ」
ダイアナは微笑んだ。
夫は、娘を王都へ連れて行く。
そこでマレアは、アステリアでは出会えない人々と出会い、島とは違う価値観に触れ、
自分の世界を広げていくのだろう。
そして、父親はそんな娘を誰よりも心配しながら、誰よりも近くで見守ることになる。
ダイアナは夫の肩に頬を寄せた。
「マレアにとって、良い旅になるといいわね」
「ああ。そうなるようにする」
窓の外では、交易船が次の航海に向けて準備を進めていた。
春から夏へ。
アステリアが一年でもっとも活気づく季節に、ダイアナは島を守り、カイルは娘を連れて王都へ向かう。
王都では、新しい世界がマレアを待っていた。




