第61話 花開く季節
マレアが十六歳になった春、アステリアの砦に届く手紙の数が、目に見えて増え始めた。
最初は、交易相手からの季節の挨拶に添えられた、何気のない問い合わせだった。
やがてそれは、王都の貴族や商会からの正式な書簡へと変わっていった。
娘の年齢を確かめるもの。
王都での滞在予定を尋ねるもの。
そして、子息たちとの面会や、将来を見据えた縁談を申し入れるもの。
アステリアの頭領、ダイアナにはもう珍しいことではなかった。
彼女自身、若くして島を継ぎ、結婚し、夫を亡くして、そして再び愛する人と生きる道を選んだ女だった。
けれど、娘のこととなれば話は違う。
その日の午後、ダイアナは執務室の机に積まれた書簡を前に、少しばかり困ったように眉を寄せていた。
「……ずいぶんと早いものね」
向かいの長椅子に腰掛けていたカイルが、手元の書類から目を上げた。
「何がだ?」
「縁談よ。マレアはまだ十六歳になったばかりなのに」
「島の掟では、十八歳にならないと結婚はできないだろう」
「そうね。でも、今のうちに縁を結んでおきたいのでしょうね。父親としては、どうなの?」
ダイアナが意味ありげに夫を見つめると、カイルは小さく息を吐いた。
「娘に近づく男が増えるのは、面白くないに決まっている」
「まあ」
あまりに率直な返答に、ダイアナは思わず笑った。
カイルは冗談を言っているわけではなかった。
彼にとって、マレアはいつまでも、初めて小さな手で自分の指を握った娘だった。
よちよち歩きで後を追いかけてきた幼い日も、熱を出して母親に甘えた夜も、昨日のことのように思い出せる。
それが、いつの間にか十六歳になった。
父親の知らないところで、幼かった娘は花開くように年頃を迎えていた。
「あなた、マレアがどれほど美しくなったか、ちゃんとわかっている?」
ダイアナが尋ねると、カイルは少しだけ目を細めた。
「わかっている」
「本当に?」
「毎日見ているからな」
その言い方がおかしくて、ダイアナはまた笑った。
けれど、彼女自身も、娘の成長には驚かされることがあった。
マレアは、母の青緑色の瞳を受け継いでいた。
光の加減によって海の浅瀬のように明るく見えることもあれば、深い入り江のように静かな色を帯びることもある。その瞳には、アステリアの海を見つめて育った娘らしい、曇りのない輝きがあった。
濃い栗色の髪はカイルによく似ていたが、陽光を受けると柔らかな艶が浮かぶ。
腰まで伸ばした髪は豊かだった。
風に吹かれた髪を耳にかける仕草には、まだ大人になりきれていない無邪気さが残っている。
顔立ちは母に似て整っていた。けれど、笑った時にはふっと目元が緩み、周囲まで明るくしてしまう表情は、驚くほど父親に似ていた。
美しいだけではない。
マレアは、好奇心が強く、何か面白いことを見つけると、夢中になって話し始める。
港で船乗りたちの話を聞くのも、交易品の帳簿を覗き込むのも好きだった。
礼儀を身につけながらも、王都の令嬢たちのように、いつも自分を美しく見せることばかり考えているわけではない。
そんな自然な魅力が、かえって人の心を惹きつけるのだろう。
「先日、港で会った商人が言っていたわ。マレアは、母君に似て美しいだけではなく、
話していると時間を忘れる、と」
「誰だ、その商人は」
「あなた、今、相手の名前を確かめようとしたでしょう?」
「必要なら確かめる。娘を褒めるのは構わない。だが、妙な下心があるなら話は別だ」
ダイアナは呆れたように首を振った。
「あなたがそんなことでは、マレアが誰かを好きになったとき、どうするつもり?」
カイルはすぐには答えなかった。
窓の向こうには、午後の陽光を受けた海が広がっていた。
やがて彼は、静かに言った。
「相手がマレアを大切にする男なら………認める」
「それだけ?」
「それ以上、何がある」
「……そうね」
ダイアナは微笑んだ。
きっと彼は、娘が選んだ相手を認めるために、ずいぶん時間をかけるに違いない。
それでも最後には、娘の幸せを願って手を放すのだろう。
それがわかるからこそ、ダイアナは夫をからかうのをやめた。
「王都からの書簡には、かなり身分の高い家もあるわ。
王家に近い家柄もあれば、海軍や交易に関わる家もある。
アステリアとの関係を深めたいのでしょうね」
「マレアを妻に迎えることで、島との繋がりを得たいということか」
「ええ。もちろん、純粋にマレア自身に関心を持っている人もいるでしょうけど」
ダイアナの声には、頭領としての冷静さが戻っていた。
マレアはただ美しい娘ではない。
アステリアの頭領の長女であり、海運と交易によって独立を守ってきた島の次代を担う可能性を持つ存在だった。
彼女と結婚するということは、島の外から来る者にとって、ひとつの大きな意味を持つ。
だからこそ、ダイアナは慎重でなければならなかった。
「縁談を受けるにしても、相手の家柄だけで決めるつもりはないわ」
「当然だ」
「マレアが島に残りたいのか、それとも外の世界を見てみたいのか。
それすら、まだ決まっていないもの」
カイルは妻を見た。
「お前は、あの子に頭領を継いで欲しいと思っているだろう」
「ええ。でも、あの子が望まないなら、無理に継がせるつもりはないわ」
ダイアナは窓辺へ歩み寄った。
海の向こうには、マレアがまだ知らない世界が広がっている。
王都の華やかな夜会も、貴族たちの複雑な関係も、島とは異なる文化も。
十歳の頃、マレアは初めて王都から来た少年と出会った。
アドリアン。
あの頃の二人は、まだ子どもだった。
海岸を歩き、貝殻を分け合い、いつかまた会おうと約束した。
その後も交流を続けていることを、ダイアナは知っていた。
けれど、その想いがマレアにとってどんな意味を持つのか、母親である彼女にもまだわからない。
マレアの心は、マレア自身のものだ。
母親だからと言って、先回りして答えを決めて良いはずがなかった。
「マレアが望むなら、王都へ行くことになるわね」
ダイアナが振り返ると、カイルは頷いた。
「俺も同行するつもりだ」
「ええ。あなたのお父様のこともあるし、ちょうど良い機会ね」
カイルの父親が病に伏せていると、カイルの兄から知らせが届いていた。
王都へ行けば、マレアを直接見たいという家も現れるだろう。
夜会への招待も届くかもしれない。
そこで出会う人々が、娘の世界を広げることもある。
もしかしたら、アステリアでは得られない何かを見つけるかもしれない。
そして、誰かに心を動かされることも。
そう考えると、ダイアナの胸には、誇らしさと寂しさが入り混じった感情が広がった。
娘は、もう自分の腕の中だけで守れる年齢ではないのだ。
「あなた」
「ああ」
「マレアには、自分で選んで欲しいわ」
カイルは妻の顔を見た。
ダイアナの青緑色の瞳には、かつて自分自身が歩んできた人生への思いが浮かんでいた。
誰かに決められた道ではなく、自分で選んだ道を歩くことを。
それがどれほど難しく、そして大切なことなのか、彼女は誰よりも知っていた。
「どんな家柄の相手であっても、どれほど良い条件を提示されても、最後に決めるのはマレア自身よ」
「…そうだな」
カイルはゆっくりと頷いた。
本心を言えば、娘にはまだ、誰の妻にもなって欲しくなかった。
島の海岸を自由に歩き、好きな本を読み、面白いことがあれば目を輝かせて笑う。
そんな姿を、もう少しだけ見ていたかった。
けれど、それは父親の願いに過ぎない。
マレアには、マレアの人生がある。
「まずは王都で縁談を受けるのかどうか、あの子に選ばせよう」
カイルがそういうと、ダイアナは微笑んだ。
「ええ。それがいいわ」
窓の外では、春の海が穏やかに光っていた。
海の向こうへ、マレアは旅立つだろう。
両親の知らない誰かと出会い、両親の知らない感情を知り、自分だけの未来を見つけるために。
十六歳の春。
マレアのもとに届き始めた縁談は、彼女がまだ知らない世界への扉だった。




