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第60話 母だけに話したこと

アドリアンがアステリアを発つ前日。


午後の執務室には、窓から潮の香りを含んだ風が吹き込んでいた。

ダイアナが港から届いた報告書に目を通していると、扉を叩く音がした。


「どうぞ」


顔を出したのはマレアだった。


「お母様、今、お話ししてもいい?」

「ええ。いらっしゃい」


マレアは部屋に入ってくると、母の机の前で足を止めた。

いつもなら、話したいことがあればすぐに話し始める娘が、今日は何か言いにくそうにしている。

ダイアナはペンを置いた。


「どうしたの?」

「あのね、お母様だけに、話したいことがあるの」

「私にだけ?」

「うん。お父様には、まだ言わないでね」


念を押す娘に、ダイアナは小さく笑った。

マレアは向かいの椅子に腰を下ろしたが、しばらく迷った後に、小さな声で言った。


「私ね。アドリアンに、レアって呼んでもいいよって言ったの」


ダイアナは娘の顔を見つめた。


「まあ、あなたがそう言ったの?」

「うん。アドリアンが、そう呼んでもいいかって聞いたから」

「それで、いいと答えたのね」


マレアは膝の上で指を組んだ。


「マレアって呼ばれるのも好きだけど、レアって呼ばれるのは……なんだか嬉しかったの」


言い終えると、マレアは恥ずかしそうに目を伏せた。

ダイアナは、その様子を見ていた。

まだ十歳の娘には、自分の気持ちを説明する言葉が見つからないのだろう。

ただ、いつもと違う呼び方が嬉しかった。そのことを、誰かに聞いてほしかったのだ。


「そう。良かったわね」


母が変わらずに答えてくれたので、マレアはほっとしたように顔を上げた。


「ねえ、お母様」

「なあに?」

「お父様とお母様は、どうして結婚したの?」


思いがけない質問に、ダイアナは目を丸くした。


「急にどうしたの?」

「だって、気になったんだもの。

 最初に会った時から、お互いに好きだったの?」

「いいえ。最初からそうだったそうだったわけではないの」

「そうなの?」


マレアは驚いた。


「じゃあ、いつ好きになったの?」

「いつだったかしらね」


ダイアナは窓の外へ目を向けた。


「一緒に過ごすうちに、少しずつだったのだと思うわ。

 気が付いたら、何かあればあなたのお父様に話したいと思うようになっていたの」

「何かって?」

「嬉しかったことも、困ったことも。海で面白いものを見つけたときもね」

「お母様も?お母様もお父様に何でも話したくなるの?」

「ええ。今でもそうよ」

「ふうん……」


マレアは何かを考えるように黙り込んだ。

ダイアナは、そんな娘を見て微笑んだ。


「結婚を決めたのは、この人と一緒に生きていきたいと思ったからよ。

 アステリアの頭領である私だけでなく、ただのダイアナとしての私も、

 あなたのお父様は大切にしてくれたわ」


「一緒に生きていきたい……」


マレアは、その言葉を小さく繰り返した。

それから、また別のことが気になったらしい。


「お母様には、お父様だけが呼ぶ名前ってある?」

「名前?」

「うん。私のレアみたいに、他の人は呼ばない名前」


ダイアナは、口元を優しくほころばせた。


「あなた、ずいぶん気になるのね」

「だって、アドリアンが私をレアって呼ぶのは、ほかの人と違うでしょう?」


言ってから、マレアは少し恥ずかしそうに口を閉じた。

ダイアナは、それ以上追及しなかった。


「決まった呼び名があるわけではないわ。

 でも、お父様が私を呼ぶ声は、他の人に呼ばれる時とは違う気がするわね」

「声が違うの?」

「ふふ。そうね」

「私には、まだわからないかしら」

「そうかもしれないわね」


マレアは納得したような、しないような顔をした。

娘の中で何かが始まっている。

けれど、それを今、大人の言葉で説明してやる必要はないだろう。

マレア自身が、これから少しずつ知っていけばいいのだから。


しばらく母と話していたマレアは、机の上に積まれた書類に目を向けた。


「お母様は、毎日こんなにお仕事をしているの?」

「ええ。今日も、まだ終わりそうにないわね」

「大変ね」


マレアは書類の束を眺めたあと、母を見上げた。


「私も大きくなったら、こんなお仕事をするの?」


ダイアナは娘の顔を見つめた。


「どうしたの、急に?」

「アドリアンがね、お父様の仕事を手伝っているでしょう?」

「そうね」

「大きくなったら、家を継ぐんだって。だからいろんなことを覚えているのよね」

「ええ。ヴェルナー家には、ヴェルナー家の役目があるもの」


マレアは頷いた。


「私も、お母様みたいにならなくちゃいけないのかな?」


ダイアナは、すぐには答えなかった。


「どうして、そう思ったの?」

「だって、私はお母様の娘だし、アステリアの頭領の子どもでしょう?」


マレアは窓の外をちらりと見た。


「港のことも、交易のことも、もっと覚えた方がいいのかなって。でもね…」

「でも?」

「私、ほかにも知りたいことがいっぱいあるの」


マレアは少し身を乗り出した。


「本を読むのも好きだし、島の外にはどんなところがあるのかも知りたいの。

 王都にも行ってみたいわ。アドリアンが知っていることを、私も見てみたいもの」

「そう」


マレアは、まだ頭領になることを具体的に考えられる年齢ではない。

それでも、母の後を継ぐということが、自分の将来に関わる大切なことだと感じ始めているのだろう。

ダイアナは椅子から立ち、娘の隣へ歩いていった。


「マレア、あなたは、私のあとを継がなければならないと思っているの?」

「……わからない」


マレアは正直に答えた。


「お母様みたいになれたら、すごいと思うわ。でも、私にできるのかなって思うの」

「そうね。今はまだわからなくていいのよ」

「ええ」


ダイアナは娘の背を撫でた。


「私は、あなたたち三人のうち、誰かにアステリアを継いで欲しいと思っているわ。

 この島を大切に思い、ここで暮らす人たちを守ってくれる人にね」


マレアは母を見上げた。


「じゃあ、私が継いでもいいの?」

「もちろんよ。あなたが望むなら、私はあなたに必要なことを教えるわ」

「……私じゃなくてもいいの?」

「ええ。エリアスでも、セレスでも。誰が継ぐかは、その子自身が決めることだと思っている」


マレアは少し考えた。


「お母様は、私が継がなくて寂しくない?」

「それは、少し寂しいかもしれないわね」


ダイアナは正直に答えた。


「私は、この島が好きだもの。大切にしてくれる人に、次の頭領になって欲しいと思っているわ。

 でもね、あなたたちに、私と同じ人生を歩んで欲しいわけではないの」


マレアは母の顔をじっと見つめた。


「自分で決めていいの?」

「ええ。あなたが何を好きになって、何を学んで、どこで暮らしたいと思うのか。

 それを知ってから、決めればいいわ」

「王都に行っても?」

「もちろん」


その答えに、マレアの顔がぱっと明るくなった。


「本当に?私、王都を見てみたいの。

 大きなお店も、きれいな建物も、島とは違う暮らしも!」

「ええ。いつか行けるといいわね」


やがて、マレアは立ち上がった。


「お母様、話をきいてくれてありがとう」

「どういたしまして」


マレアが扉へ向かいかけたところで、もう一度振り返った。


「お母様」

「なあに?」

「明日、アドリアンに、また来てねって言ってもいい?」


ダイアナは微笑んだ。


「ええ。きっと喜ぶわ」

「……そうする!」


マレアは今度こそ、笑顔で部屋を出て行った。

扉が閉まると、ダイアナはしばらくその場に立っていた。


娘はまだ十歳だ。

アステリアを継ぐかどうかも、これからどんな人生を歩んでいくのかも、まだ何も決まっていない。

それでいいのだと思う。

自分は頭領として、この島を次代へ引き継がなければならない。

けれど、母として、子どもたちの人生まで決めてしまいたくはなかった。


三人のうち誰かが、自分の意志でこの島を守りたいと願ってくれたなら、それはきっと喜ばしいことだろう。けれど、子どもたちには、それぞれの人生がある。

マレアがいつか王都へ行き、島の外の世界を知り、そこで何を見つけるのか。


今はまだ、誰にもわからない。

ダイアナは窓辺へ戻り、遠くの海を眺めた。

明日、アドリアンは島を発つ。

そして、マレアの世界は、これから少しずつ広がっていくのだろう。

その先にどんな未来が待っていても、マレア自身が選び取れるように。


ダイアナは、静かにアステリアの未来に思いを馳せた。




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