第59話 海辺の約束
アドリアンがアステリアで過ごす日々は、残すところあと一週間になっていた。
父からそのことを聞かされたとき、アドリアンは、思っていたよりも早かったな、と思った。
ひと月という滞在は、来る前にはずいぶん長く感じられた。
けれど、実際に暮らしてみれば、毎日はあっという間に過ぎて行った。
港には見たことのない船があり、海には王都では見られないほど豊かな表情があった。
そして何より、マレアがいた。
彼女と一緒にいると、一日が短かった。
だから、残り一週間だと知った日の午後、アドリアンはマレアに尋ねた。
「今度、二人で海岸へ行かない?」
「海岸?」
マレアは、青緑色の瞳を輝かせた。
「ピクニックよね?行きたい!」
あまりに即座に返事が返ってきたので、アドリアンは思わず笑った。
「じゃあ、決まりだね」
「お弁当を持っていきましょう。海岸の向こうに、きれいな石がたくさんある場所があるの。
アディにも見せてあげる」
話しながら、もう出かける準備を始めそうな様子だった。
アドリアンは、そんなマレアを見ていると、いつも不思議な気持ちになった。
王都の同じ年頃の少女たちは、もっと大人しく、上品に話すことが多かった。
もちろん、それが悪いわけではない。
彼女たちには彼女たちの楽しみがあり、アドリアンも礼儀正しく接していた。
けれど、マレアは違う。
嬉しいときは、隠そうともしない。
面白いことがあれば、目を輝かせて話し始める。
知らないことを見つければ、ためらうことなく近づいていく。
彼女の世界には、いつも新しい発見があるようだった。
そして、アドリアンは、その世界をもっと見てみたいと思っていた。
―
海岸へ向かう道は、砦から少し離れると、草地の間を縫うように続いていた。
風は穏やかで、遠くの海には陽光が細かな銀色の光を散らしている。
波が寄せては返すたび、濡れた砂浜が淡く輝いた。
マレアは籠を片手に、先を歩いていた。
「アディ、こっちよ!」
振り返って呼ぶ声が、風に乗って届く。
濃い栗色の髪が肩のあたりで揺れ、陽射しを受けた頬には小さなそばかすが浮かんでいた。
海辺で育った彼女の肌は、王都の令嬢たちのように白くはない。
けれど、健康的な色合いが、青緑色の瞳をいっそう鮮やかに見せていた。
マレアは、顔立ちだけを見てもきれいな少女だった。
けれど、アドリアンが目を留めてしまうのは、彼女が笑った時だった。
目元が柔らかくなり、頬が上がり、喜びがそのまま顔いっぱいに広がる。
今も、砂浜を振り返った彼女は、まるで何か素晴らしいものを見つけたかのように笑っていた。
「早く!ここから見る海、きれいなのよ」
「わかった。そんなに急がなくても、海は逃げないよ」
そう言いながら、アドリアンは足を速めた。
マレアの隣に並ぶと、彼女は満足そうに頷いた。
「ね?きれいでしょう」
「うん。きれいだね」
答えながら、アドリアンは、彼女の横顔を見た。
マレアはもう海を眺めていて、自分が見られていることなど気づいていなかった。
彼は慌てて視線を戻した。
なぜ、今、マレアの顔を見ていたのだろう。
海を見に来たのだから、海を見ればいい。
そう思ったのに、隣で彼女が何かを見つけるたび、その横顔につい目がいってしまうのだった。
―
二人は、風を遮る岩場のそばに敷物を広げた。
籠の中には、パンとチーズ、それから小さな焼き菓子が入っていた。
マレアが選んだものだという。
「これ、おいしいのよ。マリーが作ってくれたの」
そう言って差し出された焼き菓子を、アドリアンは受け取った。
「ありがとう。君は本当になんでも美味しそうに食べるね」
「だって、おししいもの」
マレアは不思議そうに答えたあと、自分でも可笑しくなったのか、笑った。
アドリアンもつられて笑ってしまった。
食事を終えると、二人は砂浜を歩きながら貝殻を探し始めた。
マレアは見つけるたびにしゃがみ込み、一つ一つ手に取って確かめた。
白い巻貝、淡い桃色の貝、波に磨かれて丸くなった小石。
「これは形が面白いわ」
「それは貝じゃなくて石じゃない?」
「そうかしら、貝に見えるのに」
真剣な顔で石をひっくり返すマレアを見て、アドリアンは笑いをこらえた。
彼女はようやくそれを石だと認めると、少し残念そうに砂の上へ戻した。
そのときだった。
「アディ!」
呼ばれて振り向くと、マレアが両手で何かを包み込むように持っていた。
「見て。これ!」
手のひらにあったのは、今まで見たことのない貝だった。
二枚の殻がぴたりと合わさり、表面には淡い銀色と薄青い色が幾重にも重なっていた。
角度を変えると、表面に虹のような光が浮かぶ。
珍しい貝だった。少なくとも、アドリアンが王都近くの海岸で見たものとは違っていた。
「きれいだね」
「でしょう?こんなの、初めて見たわ」
マレアは嬉しそうに貝を光にかざした。
そのとき、アドリアンは気づいた。
殻の合わせ目に沿って、貝がきれいに二つに分かれそうなことに。
「これ、二枚貝だよ。ほら、ここから開くんじゃないかな」
二人でそっと確かめてみると、殻は無理なく二つに分かれた。
片方ずつ手に載せる。
片方の殻には、淡い青色の光が強く残っていた。
もう片方は銀色を帯び、縁に薄い桃色が差している。
二つを並べれば、ぴたりと合う。
「すごい…」
マレアは息を呑んだ。
アドリアンも、自分の掌にある貝を見つめた。
二つに分かれても、それぞれが同じ模様を持っている。
別々のものになったようでいて、もともとは一つだったことが、よく分かる。
「ねえ、アディ」
マレアが顔を上げた。
「これ、一つずつ持って行かない?」
アドリアンは彼女を見た。
「一つずつ?」
「うん。私はこっちを持つわ。アディはそっち」
彼女は銀色と桃色の光を帯びた柄を選び、嬉しそうに握りしめた。
「離れていても、もともとは一つだったってわかるでしょう?」
その言葉に、アドリアンは少しだけ考えた。
離れていても、もともとは一つ。
難しいことを言っているわけではない。貝の話なのだから、当たり前のことだ。
それなのに、彼はなぜか、その言葉が気に入った。
「いいね」
アドリアンは、自分の殻を指先でそっと包んだ。
「僕も持っているよ」
「約束ね、失くさないでね、アディ」
「君こそ」
「私は絶対に失くさないわ」
自信たっぷりに言う彼女を見て、アドリアンは頷いた。
「じゃあ、僕も絶対に失くさない」
その約束をしたとき、彼は自分の声がいつもより少しだけ真剣になったことに気づかなかった。
―
帰り道、マレアは何度も手のひらを開いて、貝を確かめていた。
陽にかざしてみたり、模様を眺めたり、指先で縁をなぞってみたり。
そのたびに、嬉しそうに笑う。
「ねえ、アディ。王都に帰っても、時々この貝を見る?」
「見ると思うよ」
「私も見るわ」
マレアはそう言って、貝を大切そうに籠の小さな袋へしまった。
「今日のこと、忘れないでね」
アドリアンは、少し驚いて彼女を見た。
「忘れないよ」
そう答えると、マレアは安心したように笑った。
彼女にとって、今日はきっと楽しい一日なのだろう。
珍しい貝を見つけて、二人で分けて、約束をした。
それだけのことだ。
けれどアドリアンは、彼女が笑うたび、今日のことを忘れたくないと思っていた。
海岸で見た景色も、風の匂いも、マレアが貝を光にかざしたときの美しい横顔も。
そして、彼女が自分に向かって「なくさないでね」と言った声も。
どうして、そんなことまで覚えていたいのだろう。
アドリアンには、まだよくわからなかった。
ただ、王都へ帰った後も、この貝を見るたびに今日のことを思い出すだろうと思った。
そうしたら、アステリアの海を思い出す。
そしてきっと、マレアのことも。
隣を歩く少女は、もうべつの話を始めていた。
「今度はね、もっと向こうの岩場に行きたいの。
そこには、潮が引いたときだけに見える小さな水たまりがあってね……」
アドリアンは彼女の話に耳を傾けた。
残り一週間。
まだ一緒に過ごせる日がある。
それが嬉しいと思ったことを、胸にしまっておいた。




