第58話 二人だけの
アドリアンがアステリアに来てから、十日ほどが過ぎていた。
朝はヴィクトルとともに港へ出かけ、昼には交易の帳簿を見せてもらい、夕方にはその日に学んだことを
父親に報告する。
アドリアンの毎日は、十歳の少年にしては忙しかった。
けれど、仕事ばかりというわけでもない。
マレアが港を案内したり、海燕号を見せたりするうちに、二人は自然と一緒に過ごす時間が増えていた。
アドリアンは、マレアの知らない王都の話をした。
マレアは、アドリアンの知らない島の話をした。
同じ十歳でも、育った環境は違う。
互いの話には、知らないことがたくさんあった。
それが、二人には楽しかった。
―
その日の昼食は、少し遅くなった。
ヴィクトルは交易の打ち合わせが長引き、カイルも海燕号のことで港に残っていた。
ダイアナは執務室で仕事を続けていたため、マレアとアドリアンは二人で食堂へ向かうことになった。
食堂の入り口に着くと、アドリアンが先に扉へ手を伸ばした。
「どうぞ、レア…じゃない、マレア」
まだ呼びなれない名前を口にして、彼は少し笑った。
マレアは礼を言って中へ入った。
マレアが椅子に手をかけるより先に、彼は椅子を引いた。
「ここでいい?」
「ええ。ありがとう」
マレアは少し驚いたものの、素直に腰を下ろした。
アドリアンにとっては、いつものことだった。
母や、王都で付き合いのある令嬢たちと食事をするときにも、扉を開けたり、椅子を引いたりしてきた。
父から特別に言いつけられたわけではない。
家族の中で、そうすることが自然だった。
けれど、マレアは少し違った。
礼を言うときの声も、彼を見上げる顔も、何かをしてもらったことを心から嬉しく思っているようだった。大げさに喜ぶわけではない。
それが、彼には心地よかった。
「王都では、みんなこうするの?」
食事が運ばれてきたあと、マレアが尋ねた。
「何を?」
「扉を開けたり、椅子を引いたりすること」
「ああ。そうすることが多いね」
「そうなのね」
マレアはスプーンを手に取り、少し考えるように目を伏せた。
「私、こういうことをしてもらったのは初めて。
お父様は、私が小さい頃から何でも自分でできるようにって言うし」
「そうなの?」
「ええ。でもお父様も扉くらいは開けてくれるわよ」
向かいに座ったアドリアンは、パンを手に取りながら、ふとマレアを見た。
彼女はまだ、どこか嬉しそうな顔をしている。
その表情に、アドリアンは思わず目を留めた。
王都で会う令嬢たちは、もう少し違う。
何を話せば相手に喜ばれるか、どんな言葉を使えば失礼にならないか。
幼い頃から教えられ、彼女たちは皆、礼儀正しく、きちんとしていた。
けれど、マレアは違った。
初めてのことを、初めてだと素直に喜ぶ。
嬉しい時には、顔いっぱいに喜びが広がる。
面白いことがあれば、身を乗り出して話し、気になったことは遠慮なく尋ねる。
海の話をするときなど、青緑色の瞳がきらきら輝くのだ。
彼女には、自分をよく見せようとするところがなかった。
それが、アドリアンにはとても面白かった。
いや、面白いだけではない。
マレアが笑っていると、つい自分も笑ってしまう。
彼女が何かを見つけて駆け出せば、その先に何があるのか、自分まで知りたくなる。
今日だって、扉を開け、椅子を引いただけなのに。
あんなに嬉しそうな顔をするとは思わなかった。
友達なのに。
そう思うのに、彼女が自分に向ける笑顔は、ほかの誰かに向けるものより気になってしまう。
その理由は、まだ彼自身にもわからなかった。
マレアを彼が見ていたら、ふいに彼女と目が合った。
マレアが笑った。
その笑顔を見た瞬間、アドリアンの胸がどきりと大きく鳴った。
彼は慌ててパンに目を落とした。
どうして今、こんな風に胸が鳴ったのだろう。
わからない、マレアは友達なのに。
食事を終える頃、二人の話題は港で見た船のことに移っていた。
マレアは身振りを交えながら話し、アドリアンはときどき相槌を打つ。
気づけば、食堂には二人の笑い声が響いていた。
やがて、アドリアンがふと思い出したように言った。
「マレアなら、僕のことをアディって呼んでいいよ」
「アディ?」
「うん、僕の家族はそう呼ぶんだ」
「わかったわ、アディ」
マレアは、少し恥ずかしそうにその愛称を口にした。
アドリアンはマレアを少し見てから言った。
「君のこと、レアって呼んでもいい?」
マレアはきょとんとした。
「レア?」
「うん。マレアって呼ぶより、短くていいと思ったんだ」
マレアは考えた。
レア。
自分の名前なのに、いつもと違って聞こえる。
アドリアンの口からその呼び名が出るところを想像すると、なぜだか嬉しい気持ちと少し恥ずかしい気がした。そして、胸の奥がふわっと舞い上がるような感覚がした。
「……いいわ」
マレアは小さく答えた。
それから、少し迷ったあと、付け加えた。
「でも、アディだけよ」
「え?」
「レアって呼んでいいのは、アディだけ」
言った途端、恥ずかしくなったのか、マレアは視線を逸らした。
自分でも、どうしてそんなことを言ったのかわからなかった。
ただ、その呼び名はアドリアンに呼んで欲しかった。
他の人に呼ばれるのは、きっと違う気がしたのだ。
アドリアンは、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと笑った。
「わかった」
彼は確かめるように彼女の名を口にした。
「ありがとう、レア」
マレアは顔を上げた。
たった二文字の呼び名だった。
それなのに、彼の声で聞くと、いつもの自分の名前とは違うものになったような気がした。
嬉しくて、少し恥ずかしくて、けれど、もう一度呼んで欲しい。
そんな気持ちを抱えながら、マレアは笑った。
アドリアンも笑った。
二人はまだ、自分たちの胸に生まれ始めた小さな変化に気づいていなかった。
ただ、今日という日が、昨日までとは少し違うものになったことだけは、なんとなく感じていた。
「レア」
もう一度、アドリアンが呼んだ。
「なあに、アディ?」
マレアはすぐに答えた。
その呼び名は、彼だけのもの。
そして、彼女だけのもの。
二人の間に生まれた、小さな秘密だった。




