第57話 いつか来る日
アドリアンがアステリアで過ごした十日目の夜。
夕食を終えたあと、マレアはまだ少し興奮した様子で、カイルの隣に腰を下ろしていた。
食堂の窓からは、夕暮れの海が見えている。
給仕たちが食器を片付け、トーマスが何かをマリーに話している声が、遠くから聞こえてきた。
ダイアナとエリアス、セレスは居間に向かい、食堂には父と娘が残っていた。
カイルは、何か話したそうにしている娘の顔を眺めた。
「今日はすいぶん機嫌がいいな」
「そう?」
マレアはとぼけたように言ったが、頬が緩んでいる。
「何かあったのか」
そう尋ねられると、待っていましたとばかりに、マレアは父の方へ身を乗り出した。
「今日のお昼ね、食堂でとても素敵なことがあったの」
「……」
「ヴェルナー家の男の子いるでしょう?」
「ああ。アドリアンか」
「そう!アドリアンがね、私が座ろうとしたら、椅子を引いてくれたの」
グラスの水を飲もうとしていたカイルの手が途中で止まる。
「椅子を?」
「うん。私が近づいたら、椅子を引いてくれたのよ。
それで、どうぞって」
マレアはその時のことを思い出しているのか、青緑色の瞳をきらきらさせた。
「私、びっくりしちゃった。だって、そんなことしてもらったの、初めてだったんだもの」
「そうか」
カイルは静かに相槌を打った。
「それでね、私がありがとうって言ったら、アドリアンは、どういたしましてって。
まるで、大人みたいだったの。十歳なのに、すごいでしょう?」
「十歳でも、椅子くらい引ける」
「お父様、そういうことじゃないの」
マレアは笑いながら父の腕を軽く叩いた。
「ちゃんと私のことを見て、私が座りやすいようにしてくれたのよ。
誰かに言われたわけでもないのに。
そういうのって、素敵だと思わない?」
カイルは娘を見つめた。
マレアは、ただ嬉しそうだった。
相手が誰の息子であるかも、その家がどれほどの財を持っているかも、今の彼女には関係がないらしい。
ただ、ひとりの少年が自分に親切にしてくれた。そのことが彼女の心を弾ませている。
まだ十歳の少女らしい、飾り気のない喜びだった。
「そうだな」
カイルが答えると、マレアはぱっと顔を明るくした。
「でしょう?」
「ああ。相手が喜ぶことを、誰に命じられるでもなくできるのは、悪くない」
「アドリアンはね、食事の時もお父様のお仕事のことを話していたの。
商売のことをいろいろ知っているのに、偉そうじゃないのよ。
私が知らないことを尋ねても、ちゃんと教えてくれるの」
「なるほど」
「それに海燕号の話をしたら、今度はもっと詳しく聞きたいって!」
そこまで話して、マレアはふと口を閉じた。
「……私、今日、ずっと楽しかったの」
その声は、先ほどまでより少しだけ小さくなった。
カイルはグラスを置いた。
「それは良かったな」
そう言って、娘の頭に手を置く。
「マレアが楽しかったなら、それでいい」
「うん」
マレアは父の肩に寄りかかった。
まだ話したいことがたくさんあるのか、アドリアンが港で見せてくれたものや、
二人で交わした話を、また一つずつ思い出している。
カイルはそれを聞きながら、娘の髪を指先でそっと梳いた。
十歳。
まだ父親のそばで、今日あった嬉しいことを何かも話してくれる年齢だ。
けれど、いつかマレアは、父親には話さない喜びを持つようになるのだろう。
今日のように、誰かのさりげない仕草を思い出しては、ひとり頬を緩める日も来るのかもしれない。
そう考えると、少しばかり複雑な気持ちになった。
「お父様?」
「何だ」
「アドリアンって、紳士だと思わない?」
カイルは娘の顔を見下ろした。
その瞳には、まだ疑いも駆け引きもない。
ただ、一人の少年への素直な好感が宿っている。
「ああ、そうだな」
彼は慎重に答えた。
「少なくとも、今日のお前には、そう思わせる振る舞いをしたんだろう」
「うん」
マレアは満足そうに笑った。
その笑顔を見て、カイルは小さく息を吐く。
アドリアンという少年については、もう少しよく知っておく必要がありそうだった。
もちろん、それは父親として当然のことだ。
――まだ十歳の少年相手に、何を警戒する必要があるというのか
自分でもそう思いながら、カイルは娘の話を最後まで聞いた。
マレアが楽しそうに話す、その少年のことを。
そして、娘が自分の知らない誰かと歩くだろう、いつか来る日を想像した。




