第56話 商人の息子
ヴィクトル・ヴェルナーの船が港に入ったのは、朝の潮が満ち始めた頃だった。
砦の窓からそれを見つけたダイアナは、手にしていた書類を机に置いた。
「ヴェルナー家の船ね」
向かいで海図を広げていたカイルが顔を上げる。
「予定どおりか」
「ええ。ひと月ほど滞在すると聞いているわ」
ヴィクトルとは、かつて縁談が持ち上がったことがある。
あの話がまとまらなかったあとも、ヴェルナー家との交易は続いた。
互いに必要なものを理解し、約束を守り、長い年月をかけて築いてきた関係だ。
今では、以前の縁談をことさら意識することもない。
今回の訪問は、交易の実務を確かめることに加え、十歳になった長男アドリアンに商人としての
学びをさせるためだという。
「十歳で、もう仕事の勉強なのね」
「商人の家なら、そういうものだろう」
カイルは海図に目を戻した。
ダイアナは窓の外を見た。船から降ろされる荷の一つ一つに、これから誰かの手を渡っていく品物の
重みがある。商人たちは、それを仕入れるところから届けるところまで、すべてを考えなければならない。
頭領の仕事にも通じるものがある。
けれど、商家ではそれを子どもの頃から意識して学ばせるのだという。
ダイアナは、その教育に以前から関心があった。
―
昼前、ヴィクトルは息子を伴って砦を訪れた。
「久しぶりね、ヴィクトル」
「お変わりなく。こちらが長男のアドリアンです」
紹介された少年は、父親の隣で一礼した。
「アドリアン・ヴェルナーです。
ひと月の間、お世話になります」
十歳にしては、落ち着いた挨拶だった。
銀糸を織り込んだような髪はきちんと整えられ、
青灰色の瞳はすっきりとした顔立ちに知的な印象を与えた。
しかし、まだ少年らしい丸みのある頬は、幼さが残っていた。
ダイアナに挨拶をしながらも、その目は窓の外の港に視線がよく向いていた。
「港が気になる?」
ダイアナが尋ねると、アドリアンは少し恥ずかしそうに姿勢を正した。
「はい。船から荷を降ろしていましたが、先に運ぶものと、後にするものがあるようでした」
「よく見ているのね」
「父上から、荷の扱いには順序があると教わりました。
傷みやすいものもありますし、先に届けなければならないものもありますから」
ヴィクトルが息子を見た。
「見ているだけでは、まだわからないことも多いがな」
「はい、父上」
アドリアンは素直に頷いた。
ダイアナはそのやり取りを眺めた。
十歳の子どもが、荷の順序や届ける時期を考えている。
もちろん、まだ父親の仕事をすべて理解しているわけではないだろう。
それでも、何をみるべきかを教えられ、実際の仕事の中で確かめようとしている。
「商家では、ずいぶん早くから仕事を学ぶのね」
「帳簿を読めるだけでは、商家は出来ませんから。
品物がどこから来て、誰が運び、どこで売られるのか。
実際に見ておかなければ、数字の意味もわからないでしょう」
「なるほど」
ダイアナは頷いた。
父が生きていた頃、自分も執務室で大人たちの話を聞いていた。
港の報告を読み、交易の相談に耳を傾け、わからないことを父に尋ねた。
あれも、今思えば学びの時間だったのだろう。
ただ、自分の場合は頭領の娘として、そうするのが当たり前だった。
ヴィクトルは、商人の息子に何を学ばせるべきかを考え、こうして島へ連れてきている。
「いい経験になると思うわ。
アステリアの港で、見たいものがあれば遠慮なく言ってちょうだい」
「ありがとうございます」
アドリアンが顔を上げた。
そのとき、執務机のそばにいた、マレアと目があった。
「こちらは娘のマレアよ。同じ十歳なの」
ダイアナに紹介され、マレアも一歩前に出た。
濃い栗色の髪が肩の上で揺れる。母に似た青緑色の瞳は、相手をまっすぐに見つめていた。
日に焼けた頬には薄いそばかすが散り、笑うと父親によく似た明るい表情になる。
「マレアよ、よろしくね」
「よろしく、マレア」
挨拶を交わすと、マレアはすぐに尋ねた。
「アドリアンは、商売のお勉強をしているの?」
「うん。父上の仕事についていくこともあるよ」
「十歳なのに?」
マレアは目を丸くした。
アドリアンは少し困ったように笑った。
「十歳だから、まだ見ていることのほうが多いんだ。
商談の席では、父上の話を聞いている。
わからないことは、あとで教えてもらうよ」
「そうなのね」
マレアは感心したように頷いた。
自分も母の仕事を見たことはある。
執務室に出入りするのも珍しくないし、港の人々とも顔なじみだ。
けれど、アドリアンは父親の仕事を学ぶために、ここへ来たのだという。
同じ十歳でも、すでに自分が何を学ぶのかを意識している。
それが、マレアには少し不思議だった。
―
翌朝、マレアはアドリアンを港へ案内した。
ヴィクトルは交易の打ち合わせで、執務室に残り、カイルは海燕号の整備を確かめに出ていた。
「まずは、どこを見たい?」
マレアが尋ねると、アドリアンは港を見渡した。
「荷を降ろしているところを、もう少し近くで見たいな。
それから、船に何を積んでいるのかも知りたい」
「わかったわ。こっちよ」
マレアは慣れた足取りで埠頭へ向かった。
荷を運ぶ男たちの間を抜け、積み上げられた木箱のそばで足を止める。
「これは南の港から届いた香辛料よ。
あちらの樽は油。向こうにある布は、今朝着いた船から降ろしたばかりなの」
「全部、マレアが覚えているの?」
「全部じゃないわ。でも、港にいると自然にわかるの」
マレアは木箱の側面に記された印を指さした。
「ほら、これが船主の印。あちらの荷にも同じ印があるでしょう?」
アドリアンはしゃがみ込み、木箱の印を確かめた。
「本当だ。同じ船から来た荷なんだね」
「ええ。あっちの倉庫に運ぶのよ」
彼は立ち上がると、荷を運ぶ人々をしばらく眺めた。
「荷が届くまでにも、ずいぶん人が関わるんだね」
「そうね。船員も、荷を運ぶ人も、倉庫で管理する人もいるわ」
「父上は、品物の値段だけではなく、運ぶ費用や時間も考えなければならないと言っていたよ」
マレアは彼の横顔を見た。
「商人のお仕事って、難しそうね」
「難しいよ。昨日も、父上が話していたことを全部は理解できなかった」
アドリアンは、少し照れたように笑った。
「でも、わからなかったことが、次にわかると嬉しいんだ」
その言葉に、マレアは戸惑った。
アドリアンは、商人になるために学んでいる。
それが彼の家で大切にされていることもわかった。
けれど、彼自身も、知ることを楽しんでいるのだ。
「ねえ、アドリアン」
「何?」
「商人になりたいの?」
彼はすぐには答えなかった。
少し考えてから、口を開いた。
「今は、なりたいと思っている。
父上の仕事を見ていると、もっと知りたくなるから。
でも、まだ十歳だし、これから変わるかもしれない」
「変わってもいいの?」
「父上は、まず自分の目で見て、考えなさいと言っているよ」
マレアは、港の向こうへ目を向けた。
海燕号の帆柱が、青空の中に伸びている。
自分も、海が好きだ。
船を見るのも、知らない土地の話を聞くのも好きだった。
母が島を治めている姿を見て、いつか自分も手伝うのだろうと思うことはあった。
でも、何をしたいのかと聞かれたら答えられない。
アドリアンは、父親の仕事を見ながら、自分が何を好きなのか、何を知りたいのか確かめている。
自分には、そういう考え方がなかった。
「私も、いろいろ見てみようかしら」
マレアが呟くと、アドリアンは彼女を見た。
「マレアは、いつも港を歩いているんじゃないの?」
「そうだけれど、ただ歩いているだけだったわ。
これからは、もっとよく見てみるの」
そう言って、マレアは近くの倉庫を振り返った。
「お母様のお仕事も、ちゃんと見てみたいわ。いつも忙しそうだから、何をしているのか、全部は知らないの」
「それは、いい考えだと思う」
アドリアンが頷いた。
「僕も、父上の仕事を見ていると知らないことばかりだよ」
二人は顔を見合わせて笑った。
そのあと、アドリアンは船の積み荷について、港の商人にいくつも質問した。
マレアも隣で聞いていたが、途中から、自分の知らないことが思のほか多いのに気づいた。
いつも見ている港なのに。
知っているつもりだった景色の中に、まだ知らないことがいくつも隠れていた。
―
その日の夕方、ダイアナが執務室で書類を読んでいるとマレアがやってきた。
「お母様、今、お話ししてもいい?」
「ええ。どうしたの?」
「お仕事を見せて欲しいの。どんなことを考えて、何を決めているのか、知りたい」
ダイアナは手を止め、娘を見た。
「急にどうしたの?」
「アドリアンが、お父様のお仕事を見て、いろいろ学んでいるでしょう?」
私も、自分が知らないことを、もっと知りたいと思ったの」
マレアは机のそばまで来た。
そこには交易の報告書と、港の配置を記した地図が広げられている。
幼い頃から見慣れたものだった。
「もちろんよ。明日は港から届いた報告を一緒に見ましょう。
わからないことがあれば、なんでも聞いてちょうだい」
「本当?」
「ええ。ただし、私の仕事を見たからと言って、同じ仕事をしなければならないわけではないわ」
ダイアナは娘の髪をそっと撫でた。
「何をしたいのかは、これから見つけていけばいいのよ」
マレアは頷いた。
その言葉に、ほっとしたような顔をしたあと、机の上の地図に目を落とす。
「ねえ、お母様。
この港の印は、どうしてここにあるの?」
ダイアナは娘の隣に椅子を引いた。
「それはね……」
窓の外では、夕暮れの港に帰ってきた船がゆっくりと帆を畳んでいた。
アドリアンが商人の息子として学ぶひと月は、マレアにとっても、いつものアステリアを違う目で見る時間になっていった。




