第55話 三本の波
冬に二人目の妊娠がわかってから、次の年の盛夏にダイアナとカイルは長男エリアスを迎えた。
アステリア島の季節は巡り、夏を過ぎ冬を迎え初夏の匂いが風に混じるようになった。
朝から陽射しは強く、岬に吹き付ける風には潮の匂いが濃い。
港では交易船が帆を張り、造船所では木槌の音が響いている。
島を囲む海はどこまでも青く、陽光を受けた波頭が銀色に輝いていた。
砦の庭では、五歳になったマレアがマリーに見守られながら遊んでいた。
濃い栗色の髪を風に揺らし、青緑色の瞳を輝かせて走り回る姿は、幼い頃のダイアナによく似ていた。
その少し離れた場所で、カイルが妻を待っていた。
ダイアナはこのところ、以前にも増して疲れやすくなっていた。
頭領としての仕事が忙しいのは、いつものことだ。
けれど、最近は朝食の途中で手を止めたり、午後になると横になりたくなったりする。
それでも、彼女自身はあまり気にしていなかった。
春から夏へと季節が移り、体がついていかないのだろう。
そう考えていた。
ところが、ある朝。
身支度をしていたダイアナは、鏡の前でふと手を止めた。
衣服の上からでもわかるほど、腹部に丸みが出ている。
最初は気のせいかと思った。
けれど、ここ数日の身体の変化を思い返すとどうにも気になった。
「……おかしいわね」
独り言をこぼし、そっとお腹に手を当てる。
そのときだった。
内側で、何かが動いた気がした。
ほんのわずかな感覚だった。
腸が動いただけかもしれない。
そう思おうとしたけれど、また小さく何かが触れた。
ダイアナは息を止めた。
まさか。
そんなはずはないと思いながら、胸の奥で、一つの考えがゆっくりと形を取り始める。
彼女はしばらく鏡の中の自分を見つめていた。
それから、急いで衣服を整えた。
―
「カイル、少し話があるの」
執務室に入ってきた妻を見て、カイルは手にしていた書類を置いた。
「どうした」
ダイアナは彼の向かいに腰を下ろしたものの、すぐには話し始めなかった。
何から言えばいいのだろう。
自分でもまだ信じられないのに。
「最近、お腹が急に大きくなった気がするの」
カイルは妻の顔を見た。
「それで?」
「それで……もしかしたら、と思うことがあって」
彼女は少し迷ってから、自分のお腹に手を置いた。
「赤ちゃんがいるのかもしれないわ」
カイルは黙った。
ダイアナはその沈黙を見つめ、困ったように笑った。
「私も、まだ信じられないのだけれど」
「……三人目か?」
「そうかもしれない」
カイルは椅子の背から身体を起した。
驚いていないはずがなかった。
マレアが生まれてから5年。
エリアスが生まれたのは去年の盛夏だ。
あのとき、島は夏の光に満ちていた。
小さな息子を始めて抱いた日のことを、カイルは今でも鮮明に覚えている。
マレアは弟の顔を不思議そうにのぞき込み、父親の腕の中にいる赤ん坊に、そっと自分の指を差し出していた。
あれから、また新しい命が宿ったというのか。
「医師に診てもらおう」
カイルは言った。
「ええ。私もそう思っていたわ」
彼は立ち上がり、妻のそばへ歩み寄った。
そして、彼女の前に膝をつく。
大きな手が、ダイアナのお腹にそっと触れた。
「ここにいるのか」
「まだ、はっきりとはわからないけど」
「そうか」
カイルはしばらく手を置いたまま、何も言わなかった。
やがて顔を上げる。
「もし本当にいるなら、会うのが楽しみだ」
その言葉に、ダイアナの表情が和らいだ。
「私もよ」
彼女は彼の頬に触れた。
「驚いたでしょう?」
「驚いた」
「私も」
二人は顔を見合わせ、笑った。
予想していなかったことだった。
けれど、思いがけない命が訪れることを、二人はもう恐れてはいなかった。
―
診察の結果、ダイアナは妊娠していた。
しかも、妊娠六か月に入っているという。
医師の説明を聞きながら、ダイアナは驚きを隠せなかった。
六か月。
もう、そんなに経っていたのか。
これまでの体調の変化を思い返せば、思い当たることはいくつもあった。
けれど、頭領としての日々は忙しく、マレアとエリアスの世話もあり、自分の身体の小さな変化を深く考える余裕がなかった。
「まさか、六か月も気づかないなんて」
砦へ戻る道すがら、ダイアナは困ったように笑った。
「お前らしいと言えば、お前らしい」
隣を歩くカイルが答えた。
「どういう意味?」
「自分のことを後回しにする」
言い切る声に、責める響きはなかった。
ダイアナは少しだけ眉を寄せる。
「これからは気を付けるわ」
「そうしてくれ」
カイルは彼女の手を取った。
「お前も、その子も大切だ」
その言葉が、胸の奥へ静かに染み込んだ。
ダイアナは彼の手を握り返した。
もうすぐ、また家族が増える。
その事実は、少しばかり慌ただしく、そして途方もなく幸福なものに思えた。
―
三人目の妊娠がわかってから、カイルは以前にも増して妻を気にかけるようになった。
とはいえ、ダイアナは頭領であり、仕事を簡単に手放すことはできない。
執務室に書類が積まれ、交易の報告や港の整備についての相談が絶えず持ち込まれる。
そんな彼女の傍らには、ときおりエリアスがいた。
まだようやくつかまり立ちができるようになったばかりだ。
「あなたはお兄さんになるのね」
ダイアナは微笑み、息子の頭を撫でた。
扉のそばに立っていたカイルも、何も言わずにその光景を見つめていた。
窓の外では、夏の始まりの風が旗を揺らしていた。
濃紺の布地。
銀の海鷲。
そして、その下に描かれた三本の波。
アステリアの旗は、海から吹き上げる風を受け、ゆったりと空に広がっていた。
ダイアナはその旗を見つめた。
三本の波は、島の過去・現在・未来を表す。
けれど、今の彼女には、別のものにも見えた。
マレア。
エリアス。
そして、まだ生まれていない、小さな命。
もちろん、旗が子どものために作られたわけではない。
三本の波には、島の海と歴史が刻まれている。
それでも、彼女には不思議な縁を感じずにはいられなかった。
島を守る旗の下で、自分たちの家族もまた、三つの波を持つことになる。
その波は、これからどんな形で広がっていくのだろう。
―
秋の気配がし始めた頃、三人目の子どもが生まれた。
その日は、朝から海が穏やかだった。
空には雲一つなく、砦の塔から見える海は、遠くの水平線まで澄んでいた。
長い陣痛の後、ようやく聞こえた産声に、カイルは深く息を吐いた。
「女の子ですよ」
マリーの声がした。
カイルは一瞬、言葉を失った。
娘。
また、娘が生まれた。
彼はダイアナのそばへ歩み寄った。
疲れ切った妻は、それでも小さく笑っていた。
額には汗が浮かび、頬は赤く染まっている。
「カイル……」
「よく頑張った」
彼は妻の額に口づけた。
「赤ちゃんを見せて」
ダイアナが囁くと、マリーが小さな赤ん坊を二人の間にそっと寝かせた。
カイルは、その顔を見た瞬間、動けなくなった。
淡い金色の髪。
やわらかな頬。
そして、目を閉じた顔立ちの、どこか懐かしい輪郭。
息をするのも忘れたように、彼は赤ん坊を見つめた。
亡き母に、そっくりだった。
髪の色だけではない。
顔の形も、鼻筋も、眠るときの表情も。
幼い頃、母が窓辺に座り、海を見ていた姿が脳裏に甦る。
王都の海軍高官だった仕事の関係で、家には海の話が絶えなかった。
母は、そんな父の帰りを静かに待つ人だった。
カイルが船の話をすれば、いつも微笑んで聞いてくれた。
彼が海軍に進むことを決めたときも、母は反対しなかった。
ただ、無事に帰ってくるようにと、その手を握ってくれた。
もう二度と会えない人だった。
けれど今、目の前にいる小さな娘の顔に、その面影があった。
「……カイル?」
ダイアナの声に、彼はようやく我に返った。
「どうしたの?」
彼はすぐには答えられなかった。
大きな手を伸ばし、赤ん坊の頬に触れる。
その指先に、温かな肌の感触があった。
「母に似ている」
やっと、それだけを口にした。
ダイアナは彼の顔を見た。
カイルが母親の話をするときの表情を、彼女は知っていた。
懐かしさと、失った悲しみと、今も変わらない愛情。
それらが一度に浮かぶ、静かな顔だった。
「そんなに似ているの?」
「ああ」
カイルは頷いた。
「母がここにいるのかと思った」
その声は、いつもより少し低かった。
ダイアナは赤ん坊を見つめた。
生まれたばかりの娘は、何も知らずに眠っている。
彼女の小さな胸が、規則正しく上下していた。
「よかったわね」
ダイアナは言った。
「あなたに、もう一度お母さまを思い出させてくれる子が生まれたのね」
カイルは妻を見た。
それから。深く頷いた。
「この子に、母と同じ名をつけたい」
彼は赤ん坊を見つめたまま言った。
「セレス、と」
ダイアナは、すぐには答えなかった。
彼の母の名を、彼女は知っていた。
カイルが大切にしてきた人。
彼の中に、今も静かに生き続けている人。
その名を娘に与えたいという気持ちが、痛いほどわかった。
「セレス…」
ダイアナは、そっとその名を口にした。
「素敵な名前ね」
カイルの表情が、わずかに揺れた。
「いいのか?」
「もちろん」
ダイアナは微笑んだ。
「あなたのお母さまの名前を、この子が受け継ぐのね」
彼は妻の額に口づけた。
「ありがとう」
「お礼なんていらないわ」
ダイアナは眠る娘を見下ろした。
「この子が大きくなったら、あなたのお母さまの話をたくさん聞かせてあげて。
どんな人だったのか、何が好きだったのか。
あなたがどれだけ愛されていたのかも」
カイルは、しばらく黙っていた。
やがて、娘の小さな手を自分の指に触れさせた。
赤ん坊の指が、かすかに動いた。
「そうする」
彼は言った。
「母のことを、忘れさせない」
その声には、確かな決意があった。
セレスは、カイルの指を握るようにして眠っていた。
彼はその小さな手を見つめた。
失った母の面影を持つ娘。
けれど、母の代わりではない。
この子は、この子自身の人生を生きていく。
自分たちが愛し、守り、成長を見届ける、新しい命なのだ。
そのことを、彼は誰よりも大切にしたかった。
―
数日後、ダイアナは砦の窓辺から島を眺めていた。
腕の中にはセレスがいる。
少し離れた庭では、マレアがまだ幼い弟とおままごとをして遊んでいた。
二人の楽しそうな笑い声が風に乗って届いた。
カイルがダイアナの隣に立った。
「何を見ている?」
「子どもたちよ」
「そうか」
彼は彼女の肩に手を置き、同じ方向を見た。
窓の外では、アステリアの旗が風に揺れていた。
濃紺の布地に、銀の海鷲。
その下に並ぶ、三本の銀の波。
この旗を見上げるたび、ダイアナは父を思い出す。
海の事故で父を失った日も、母を見送った日も、レオンを失った日も。
海は、何も変わらずそこにあった。
時に穏やかで、時に恐ろしいほど荒々しく。
多くのものを奪いながら、それでも新しいものを運んでくる。
彼女は、腕の中のセレスを見下ろした。
マレアが生まれた時、初めて母になった。
エリアスが生まれた時、家族の形がもう一つ広がった。
そして今、セレスが生まれた。
三人の子どもたち。
それぞれ違う顔を持ち、違う声で泣き、違う未来を歩んでいく。
「三本の波ね」
ダイアナが呟いた。
「何の話だ?」
カイルが尋ねた。
彼女は窓の外の旗を指した。
「アステリアの旗。
三本の銀の波があるでしょう」
「ああ」
「昔から見慣れていたはずなのに、今は少し違って見えるの」
ダイアナはセレスの頬にそっと触れた。
「マレアと、エリアスと、セレス。
三人が生まれたからかしら」
カイルはしばらく旗を見つめていた。
「旗の波は、島の現在・過去・未来を表している」
「ええ。わかっているわ」
「お前がそう思うなら、それも悪くない」
ダイアナは笑った。
「あなたらしい答えね」
「三人とも、いつか自分の道を見つける。
俺たちができるのは、その道を歩けるようにしてやることだ」
ダイアナは彼を見上げた。
彼の琥珀色の瞳には、庭で遊ぶ子どもたちと、腕の中の小さな娘が映っていた。
「そうね」
彼女は静かに答えた。
「私たちは、この子たちがどんな波を起こすのか、見守っていきましょう」
カイルは頷き、セレスの小さな指に手を添えた。
その手は、まだ彼の指先を包み込むことさえできない。
けれど、いつかこの子も大きくなり、島の海を知り、旗を見上げ、自分の意志で未来を選ぶ日が来るのだろう。
窓の外では、風が強くなった。
銀の海鷲が翼を広げ、三本の波が秋の空の下で揺れている。
島の海は、絶えることなく波を生み続けている。
ひとつの波が岸に届き、やがて引いていく。
そのあとに、また新しい波がやってくる。
マレアが生まれ、エリアスが生まれ、セレスが生まれた。
三つの命は、それぞれ異なる波となって、これからのアステリアを形作っていく。
ダイアナは、カイルの肩に頭を預けた。
彼は何も言わず、彼女と娘を包み込むように腕を回した。
その温もりの中で、ダイアナは思った。
自分が守ってきた島は、これからも海とともに生きていく。
そして、この家族もまた、海とともに生きていくのだ。
三本の銀の波のように。
互いに違いながら、同じ海から生まれ、同じ岸へと続いていく。
濃紺の旗が、秋の風に大きく翻った。
その下で、三人の子どもたちの未来が、静かに始まっていた。




