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第54話 冬の贈り物

本格的な冬が訪れる頃、アステリア島の海は、夏とはまるで違う顔を見せるようになっていた。


北から吹き付ける風は冷たく、砦の窓を揺らす夜も増えた。

日暮れは早く、夕食を終える頃には、窓の外はすっかり暗くなっている。

暖炉には絶えず火がくべられ、家族が集まる居間には、薪の爆ぜる音が穏やかに響いていた。


カイルが新しい航路の調査から戻ってきて、しばらくが過ぎていた。

帰還したばかりの頃、マレアは父親から片時も離れようとしなかった。食事の席でも隣を譲らず、書庫へ行くにも、庭へ出るにも父の手を握ってついていった。


そんな娘を、カイルは少しも嫌がらなかった。

ダイアナも、もちろん嬉しかった。

夫が無事に帰ってきたこと。

そして、娘が父親の帰還をこれほど喜んでいること。


ただ、妻としては、そろそろ二人きりの時間も欲しいと思っていた。

その願いが叶ったのは、帰還から数日が過ぎた夜のことだった。

マレアが眠ったあと、二人は久しぶりに長い時間を共に過ごした。

その夜のことを、特別に思い返すこともなかった。

あれから、もう何か月も経っている。

今では、夫の航海の話も一通り聞き終え、砦にはいつもの暮らしが戻っていた。

ただ一つ、ダイアナ自身も気づいていなかった変化を除いて。


―

「ダイアナ、それは俺の分だ」


夕食の席で、カイルが言った。

彼の皿にあった酢漬けの野菜を、ダイアナが何気なく取り分けていたところだった。


「あら、まだ残っているでしょう?」

「それは俺が食べるつもりだった」

「少しくらいいいじゃない」


そう言いながら、ダイアナは口に運んだ。

酸味の強い酢漬けは、近頃妙に美味しく感じられる。

以前から嫌いではなかったけれど、これほど食べたいと思うことはなかった。

食事の支度をするマリーに頼んで、食卓に出してもらうことも増えていた。


カイルはそんな妻を眺めていたが、その時は何も言わなかった。

翌朝も、ダイアナは朝食の果物に手を伸ばした。

甘く熟したものより、まだ酸味の残るものがいい。

口に含んだときの、きゅっと頬がすぼまるような感覚が心地良かった。


「それは酸っぱくないのか?」


向かいに座るカイルが尋ねた。


「少しね。でも、美味しいわ」

「そうか」


彼はそれ以上、何も言わなかった。

けれど、それから数日が過ぎてもダイアナの好みは変わらなかった。


カイルは、妻のそんな様子を静かに見ていた。

彼女の顔色が悪いわけではない。

ひどく疲れているようにも見えなかった。

ただ、以前とは少し違う。

そう思い始めると、ほかにも気になることがあった。


朝、起きてくる時間が少し遅くなったこと。

午後になると、暖炉のそばで本を読みながら、いつの間にか目を閉じていること。


航海から帰った自分が疲れを引きずっていた頃、ダイアナは何かと気遣ってくれた。

今度は、自分が彼女の様子を気に掛ける番だった。


ある日の夕食後、カイルは居間で書類を読んでいたダイアナの隣に腰を下ろした。


「ダイアナ」

「何?」

「このところ、酸っぱいものばかり食べているな」


彼女は書類から顔を上げた。


「そうかしら」

「そうだ。朝も昼も、夕食もだ」

「美味しいのだから、仕方ないでしょう?」


悪びれずに答える妻を見て、カイルは少し考えた。

それから、思いついたことをそのまま口にした。


「……子どもができたんじゃないか?」


ダイアナの手が止まった。

暖炉の薪が、ぱちりと音を立てた。


「どうして、そう思うの?」

「お前の様子がいつもと違う」

「酸っぱいものが好きになっただけよ」

「それだけか?」


彼の問いに、ダイアナは答えようとして、ふと口を閉じた。

しばらく考えたあと、膝の上に置いていた書類に目を落とした。


「……そういえば」


カイルが彼女を見る。


「月のものがしばらく来ていないわ」


言葉にしてみて、初めて、そのことが気にかかった。

マレアを産んでから、月経はずっと不規則だった。来る月もあれば、ずいぶん間が空くこともある。

だから、今回も特に気にしていなかった。

忙しい日々の中で、気づけば何週間も過ぎていたのだ。


けれど、カイルに言われて考えてみると、酸っぱいものを欲しがるようになった時期も、朝に眠気を感じるようになったっ時期も、思い当たることがあった。

ダイアナは、そっと自分のお腹に手を置いた。


「まさか……」


声が小さくなった。

カイルは何も言わず、彼女の顔を見つめていた。

彼もまた、口にしたときには確信があったわけではない。

ただ、もしそうなら。

そう考えた途端、胸の奥に、思いがけない感情が広がっていた。


―

翌日、マリーに相談し、ダイアナは身体のことを確かめることにした。

結果が分かるまでの時間は、ひどく長く感じられた。

窓の外では、冬の雲が低く垂れこめていた。

海から吹き付ける風が、砦の石壁を鳴らしている。


ダイアナは部屋の中を歩き、窓辺に立ち、また椅子に腰を下ろした。


もし、本当に子どもができていたら。

その可能性を考えること自体、久しぶりだった。

マレアを授かった時、二人は結婚して間もなかった。

夫婦としての暮らしを始め、これから二人でどんな人生を歩んでいくのか、少しずつ考え始めていた頃だった。


妊娠がわかった時には驚いたけれど、いつか子どもを授かることを、自然に未来の一つとして思い描いていた。


けれど、マレアが生まれてからは違った。

もう一人、子どもがいたら。

そんな思いが、まったくなかったわけではない。

カイルと自分の子どもが、もう一人いたなら。

マレアに兄弟か姉妹ができたなら。


けれど、月日は過ぎても、妊娠することはなかった。

最初は、いつか授かるかもしれないと思っていた。

一年が過ぎ、さらに年月が過ぎるうちに、二人は少しずつ考え方を変えていった。


マレアがいる。


この子が、自分たちに授かった最初で最後の子どもなのだろう。

それなら、この子を大切に育てよう。

それは、寂しい諦めというより、すでに手の中にある幸せを、確かなものとして受け入れることだった。


ダイアナは、マレアを授かったことを後悔したことなど一度もない。

あの子が生まれてきてくれたから、カイルと自分の人生は、思いもよらないほど豊かなものになった。

だから、もう一人の子どもを授からなくても、二人は幸せだった。

そう思って、暮らしてきた。

それなのに、


「ダイアナ」


扉の向こうから、カイルの声がした。

彼女が返事をすると、カイルが部屋に入ってきた。

その顔を見た瞬間、ダイアナにはわかった。

カイルも何かを聞いたのだ。

彼は彼女の前に立ち、しばらく黙っていた。


「……本当なのか」


低い声だった。


ダイアナは、ゆっくりと頷いた。


「ええ」


それ以上、うまく言葉にできなかった。

カイルは、彼女を見つめたまま動かなかった。

いつもなら、何かを決めるとき、彼は迷いを長く表に出さない。

状況を受け止め、何をすべきかを考え、必要なことを口にする。

けれど、今は何も言わなかった。

やがて、彼は椅子に座るダイアナの前に膝をついた。


「もう一人、子どもができたんだな」

「……そうみたい」


ダイアナは笑おうとした。

けれど、笑顔は途中で揺らいだ。


「私、もう授からないと思っていたの」


ずっと胸の奥にあった思いが、静かにこぼれた。


「マレアが最初で最後の子どもなのだろうって。

 あなたと、あの子と、三人で暮らしていくのだと思っていたわ。

 それで十分に幸せだったのよ、本当に」

「ああ」

「だから、こんなことがあるなんて……」


最後まで言えなかった。

カイルが彼女の手を取ったからだった。

大きな手が、彼女の指を包み込む。


「俺も、もう一人授かるとは思っていなかった」


彼は、正直に言った。


「だから、驚いている」


ダイアナは彼の顔を見た。

カイルの琥珀色の瞳には、まだ戸惑いがあった。

けれど、その奥には、隠しきれない喜びが浮かんでいる。


「……嬉しい?」


ダイアナが尋ねた。

カイルは、少しだけ眉を寄せた。


「嬉しいに決まっている」


いつもの言い切る口調だった。


「ただ、まだ信じられないだけだ」


その言葉に、ダイアナの目が潤んだ。

彼女も同じだった。

嬉しい、けど、信じられない。

もう一度、赤ん坊を抱けるのだろうか。

もう一度、カイルと二人で、小さな命が育っていく時間を見守れるのだろうか。

そして、マレアは姉になるのだろうか。


考えれば考えるほど、目の前の出来事が現実とは思えなかった。

カイルは立ち上がり、彼女を抱きしめた。

ダイアナも彼の背中に腕を回す。

しばらく、二人は何も言わなかった。

やがて、カイルの手が彼女の背中をゆっくりと撫でた。


「ダイアナ」

「何?」

「もう一人、家族が増える」


彼女は彼の胸に顔を寄せた。


「ええ、カイル」


―

その夜、二人はマレアの寝室を訪れた。

娘は毛布にくるまり、静かな寝息を立てていた。濃い栗色の髪が枕の上に広がり、片方の手は、いつものようにお気に入りの小さな船の玩具に触れている。


カイルは寝台のそばに腰を下ろし、毛布から出ていた娘の手をそっと中へ戻した。

マレアは少し身じろぎしたけれど、目を覚まさなかった。


「この子がお姉さんになるのね」


ダイアナが囁いた。


「ああ」


カイルは娘の寝顔を見つめていた。


「どんな姉になるんだろうな」


その言葉に、ダイアナは微笑んだ。


「きっと、いろいろ教えてあげるつもりになるわ。

 海のことも、船のことも。それから、あなたを独り占めしようとするかもしれない」

「それは困るな」

「あなた、マレアには甘いもの」

「お前にも甘いだろう」


ダイアナは小さく笑った。

こんな風に、いつもの会話を交わせることが嬉しかった。

今日という日が来ることを、二人は予想していなかった。

それでも、今、目の前には眠る娘がいて、その先には、まだ見ぬ子どもがいる。

家族は三人で完成しているはずだった。

けれど、完成していると思っていた幸せに、もう一つの喜びが加わろうとしている。

カイルが立ち上がり、ダイアナの肩を抱いた。

二人はもう一度、娘の寝顔を見つめた。

やがて、静かに寝室を出る。


廊下の窓の向こうには、冬の海が広がっていた。

暗い水面には月明りがかすかに差し、遠くで波が岩に砕ける音が聞こえた。


「まだ、実感がないわ」


ダイアナが言った。


「俺もだ」

「このお腹に、もう一人いるのね」

「ああ」


カイルは彼女のお腹に手を置いた。


マレアが生まれるまで、二人は初めてのことばかりを経験した。

親になること、小さな命を守ること、自分たちの暮らしが少しずつ変わっていくこと。

今度は、知っている。

赤ん坊が生まれるまでの長い時間も、初めてその顔を見たときの喜びも、小さな手が自分の指を握る感触も。


けれど、同じ子どもは一人もいない。

これから出会う命も、きっと、この子だけの顔をしている。

ダイアナはカイルの手に自分の手を重ねた。


「楽しみね」

「ああ。楽しみだ」


窓の外では、冬の海が静かに満ち引きを繰り返していた。

長い間、もう訪れないと思っていた未来が、今、二人のもとへやってきた。

求めることをやめたわけではない。

ただ、いつしか、もう一人の子どもがいない人生を、幸せなものとして受け入れていたのだ。


だからこそ、この知らせは、思いがけない贈り物だった。

暖炉の火が、居間の壁に揺れる影を落としている。

カイルはダイアナの肩を抱き寄せ、彼女はその腕に身を預けた。


まだ知らない、小さな命。

まだ誰にも呼ばれていない、その子の名前。

そして、これから始まる、新しい家族の時間。


冬は深まっていく。

けれど、二人の心には温かな光が灯っていた。



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