第53話 海が満ちる
新しい航路の調査航海から、カイルが帰ってきたのは、冬の気配が少しずつ深まり始めた頃だった。
港に姿を見せた父親を見つけたマレアは、母の手を振りほどくようにして駆けだした。
「とう様!」
カイルが振り返るより早く、小さな身体が彼の足に飛びついた。
「マレア、ただいま」
カイルは笑って娘を抱き上げた。
四歳になったマレアは、もう赤ん坊ではない。
自分の足で走り、言いたいことを言い、気に入らないことがあれば頬を膨らませる。
それでも父親の姿を見つけたときの喜びようは、幼い頃と少しも変わらなかった。
「とう様、どこに行ってたの?」
「新しい航路を調べていた」
「遠かった?」
「ああ。ずいぶん遠かった」
「海は?」
「海も見た」
「どんな海?」
質問は尽きない。
カイルは娘を片腕に抱いたまま、一つひとつ答えていく。
船のこと、見知らぬ港のこと、遠くの海で見た鳥のこと。
マレアはそのすべてを聞きたがった。
ダイアナは少し離れたところから、そんな二人を眺めていた。
夫が無事に戻ったことが嬉しい。
航海のあいだ、何事もなかっただろうかと気にかけていた。
届く手紙は限られ、海の上で彼がどんな日々を過ごしているのか、想像するしかなかった。
だから、本当は自分もすぐに彼のそばへ行きたかった。
おかえりなさいと伝えたかったし、旅の話を聞きたかった。
誰もいないところで、ようやく帰ってきた夫の顔をゆっくり眺めたかった。
けれど、
「とう様、マレアと一緒にいて!」
彼の腕の中で娘がそう言った時、ダイアナは思わず笑ってしまった。
その声には、父親を誰にも譲りたくないという気持ちが、隠しようもなく表れていた。
カイルもそれに気づいたのだろう。
「もちろんだ」
迷いのない返事だった。
マレアは満足したように父の首に腕を回す。
その様子を見ていると、ダイアナの胸には温かなものが広がった。
娘が父親を恋しがっていたことを、彼女は知っている。
カイルがいない間、マレアは何度も彼のことを話した。
今どこにいるのか。
今日は船に乗っているのか。
もう帰ってくるのか。
そのたびにダイアナは答えてきた。
そして、娘の気持ちがよくわかった。
自分もまた、彼がいない日々を寂しく思っていたのだから。
ただ、四歳の娘と違って、ダイアナには彼を独り占めしたい気持ちを、少しばかり胸の奥にしまっておく分別があった。
今は、マレアの時間なのだ。
そう思いながらも、カイルと目が合うと、彼はほんのわずかに目を細めた。
まるで、あとで話そうと告げるように。
ダイアナもまた、気づかないふりをして微笑んだ。
―
その日の午後、カイルは娘にせがまれるまま、砦の庭を歩き、書庫で絵図を広げ、夕食の席でも隣に座らせられた。
マレアは、父親が帰ってきたことを確かめるように、何度も彼に話しかけた。
「とう様、明日もいる?」
「ああ、いる」
「明後日も?」
「いる」
「ずっと?」
カイルは少し考えてから、娘の髪を撫でた。
「少なくとも、今はここにいる」
それは誠実な答えだった。
海に生きる彼は、いつまでも同じ場所にいられるとは約束しない。
けれど、戻る場所を忘れたこともない。
マレアにはまだ、その意味まではわからなかっただろう。
ただ、父親が自分のそばにいる。それだけで、十分だった。
食事を終えても、マレアはなかなか寝室へ行こうとしなかった。
結局、カイルが娘を抱き上げ、寝台まで連れて行くことになった。
ダイアナは少し遅れて寝室を訪れた。
カイルは娘の枕元に腰を下ろし、マレアが持ってきた小さな船の玩具を手にしていた。
船の舷側には、幼い手で描いたらしい青い線が何本も引かれている。
「これは何だ?」
「海よ、マレアが描いたの」
「そうか。いい海だ」
「とう様の船も、ここを通るのよ」
マレアは船の玩具を指した。
「そうだな」
「マレアも一緒に行く」
「もう少し大きくなったらな」
ダイアナは扉のそばで、その光景を見つめていた。
航海から帰ったばかりの夫は、疲れているはずだった。
それでも娘の話を面倒がることはない。
何度同じ質問をされても、きちんと答えている。
彼は昔からそういう人だった。
大切なものに向ける心を、惜しまない。
やがて、マレアの瞼が重くなり、小さな手が父親の服を握ったまま眠りに落ちた。
カイルはしばらく、その寝顔を見つめていた。
それから、娘の手をそっとほどき、毛布を肩まで掛け直した。
「眠ったわね」
ダイアナが小声で言う。
「ああ」
二人は音を立てないようにマレアの寝室を出た。
扉が閉まる。
廊下には、夜の静けさが戻ってきた。
―
「寂しかった?」
カイルが尋ねたのは、二人で居間へ向かう途中だった。
ダイアナは彼を見上げた。
「誰が?」
「お前が」
あまりに率直な問いに、ダイアナは笑ってしまった。
「あなたは、私が寂しがっていたと思うの?」
「思う」
「どうして?」
「俺がいなかったから」
あまりに迷いのない答えだった。
ダイアナは、思わず彼の腕を軽く叩いた。
「ずいぶん自信があるのね」
「お前が俺を恋しがることに、理由はないだろう」
彼はそう言って、ダイアナの手を取った。
その手の温かさに触れた途端、彼が帰ってきたという実感が、ようやく胸の奥に落ちてきた。
「……寂しかったわ」
今度は素直に答えた。
「あなたがいないと、食事の席が広く感じるの。
庭を歩いていても、話したいことを思いつくと、あなたが帰ってから話そうと思う。
そうしているうちに、話したかったことを忘れてしまうのよ」
「それは困るな」
「ええ。困るわ」
二人は顔を見合わせて笑った。
けれど、ダイアナはすぐに少しだけ表情を和らげた。
「でも、マレアがあなたを待っていたのも、本当よ。
あの子にとって、あなたが帰ってくることは、とても大きなことだったの」
「わかっている」
「だから、今日は譲るつもりだったの」
「今日は、か」
「そうよ。今日は」
カイルは彼女の手を握り直した。
「明日は?」
ダイアナは答えず、彼を見た。
「明日は、俺の時間もくれ」
その言葉に、胸が小さく跳ねた。
「あなたは、今日一日ずっとマレアと一緒にいたでしょう?
少し休んだ方がいいわ」
「それとこれとは別だ」
カイルは言い切った。
「俺は、お前と過ごしたい」
ダイアナは、しばらく何も言えなかった。
結婚して何年もたつ。
娘が生まれ、家族が増え、二人の生活は以前とは違うものになった。
頭領としての務めも、航海に出る夫を待つ日々も、そこに加わった。
それでも、彼は変わらない。
彼女を妻としてだけでなく、一人の女として求めてくれる。
そのことが、ダイアナには嬉しかった。
「私もよ」
ようやく、それだけを口にした。
カイルは彼女の額に唇を寄せた。
「なら、明日は二人で海を見に行こう」
「マレアが知ったら、怒るわね」
「だから、あの子が起きる前に出る」
「ずるい人」
「そうか?」
彼は少しも悪びれなかった。
ダイアナは笑いながら、彼の肩に寄り添った。
―
翌朝、二人はまだ砦が静かなうちに庭を抜けた。
海へ続く小道には、夜露が残っていた。
草の先に光る雫を避けながら歩き、いつもの岩場までたどり着く。
そこからは、アステリアの海がよく見えた。
朝の光を受けた水面は、淡い銀色を帯びている。
遠くには、漁を終えた小舟が港へ戻る姿があった。
カイルは海を眺め、静かに息を吐いた。
長い航海だった。
新しい航路を確かめるため、何度も海図を広げ、潮の流れを読み、風向きを見極めた。
未知の海域には危険もあったし、予定通りに進まないこともあった。
けれど、今はもう、そのすべてが遠い。
隣にはダイアナがいる。
彼が帰る場所であり、彼がこれからも共にいきていきたいと願う人が。
「新しい航路は、うまくいきそうなの?」
ダイアナが尋ねた。
「まだ確かめたいことはある。だが、可能性はある」
「あなたらしい答えね」
「確かなことだけを話したい」
彼女は頷き、それ以上は尋ねなかった。
カイルがどれほど海を愛しているか、彼女は知っている。
船の上にいるときの彼は、砦で過ごすときとは少し違う。
風を読み、波を見つめ、進むべき道を考えている彼は、海と一つになったような静けさがある。
その姿が好きだった。
そして、海を愛する彼が、こうして自分の隣に戻ってくることも。
「帰ってきてくれて、嬉しいわ」
ダイアナが言った。
カイルは海から目を離し、彼女を見た。
「帰るつもりだった」
「ええ。知っているわ」
「何があっても、俺には帰る場所がある」
彼は彼女の手を取った。
「お前のいる場所だ」
ダイアナは、その手を握り返した。
言葉にしなくても、伝わるものがある。
けれど、言葉にしてもらうことが、こんなにも嬉しい。
彼女は肩を寄せ、カイルの腕に頬を触れさせた。
しばらく二人は何も話さなかった。
やがて、ダイアナが小さく笑った。
「マレアが起きたら、きっと私たちを探すわね」
「そうだろうな」
「見つかったら、今日は一日中、私があなたを独占するつもりよ」
「構わない」
「本当に?」
「ああ。ただし、今は俺の時間だ」
そう言って、カイルは彼女を引き寄せた。
ダイアナは笑いながら、その胸に身を預ける。
海は満ちていた。
寄せては返す波が、岩場の下で白くほどける。
娘が生まれてから、二人の世界は大きく広がった。
守りたいものが増えた。
愛おしい声が増えた。
明日について考える時、その先にはいつも小さな娘の姿がある。
けれど、家族が増えたからと言って、二人が夫婦でなくなるわけではない。
父と母になる前から、二人は互いを選んだ。
これから先も、きっとそうだ。
ダイアナは顔を上げ、カイルを見つめた。
「ねえ、カイル」
「何だ?」
「また、二人で海を見に来ましょう」
「何度でも」
彼はそう答え、彼女の唇にそっと口づけた。
遠くで、海鳥が鳴いた。
砦の方から、幼い声が聞こえてくる気がした。
もうすぐマレアが目を覚まし、父親を探し始めるだろう。
それまでの、ほんの短い時間。
二人は手をつないだまま、朝の海を眺めていた。
満ちていく海のように、愛する気持ちもまた、静かに、絶え間なく満ちていく。




