第52話 父の眼差し
マレアの髪は、俺と同じ色をしている。
陽の光を受けると、濃い栗色の髪には柔らかな銅色が浮かぶ。
生まれたばかりの頃は、あの小さな頭にほんのわずかに生えているだけだった髪も、四年の間にずいぶん伸びた。
走れば肩のあたりで揺れ、風が吹けば頬にかかる。
マレアはそれを指先で払い、時折、母親と同じ仕草で耳にかける。
そういう何気ない瞬間に、俺は今でも少し驚く。
ダイアナが、そこにいるような気がするのだ。
顔立ちは母親によく似ている。
額の形も、すっと通った鼻筋も、小さな顎の線も。
幼いながら、どこか凛とした面差しをしている。
日に焼けた肌は健康的で、島の子どもらしい。
砦の中で本を読んでいる時でさえ、窓の外の海や空の色を映しているような青緑の瞳が、ふとこちらを向く。
その瞳を見るたび、俺はダイアナに出会った頃を思い出す。
あの頃の彼女は、今よりずっと若かった。
海を愛し、島を守り、誰にも弱さを見せまいとしていた女。
その女が、今では娘の髪を梳き、絵本を読み聞かせ、眠る前には小さな額に口づけている。
そして、その娘が俺のところへ駆けてくる。
「とう様!」
呼ばれて振り向くと、マレアは満面の笑みを浮かべている。
その瞬間だけは、母親の面影が消える。
目を細め、頬を上げ、口を大きく開けて笑う顔。
嬉しいことがあれば全身で喜び、面白いことがあれば遠慮なく笑う。
俺と同じ笑い方だった。
初めてそれに気づいたとき、ダイアナは可笑しそうに笑った。
「マレアが笑うと、あなたが二人いるみたいね」
否定する理由はなかった。
むしろ、誇らしかった。
この子の顔には、俺が愛している女の面影がある。
けれど、その笑顔には俺自身がいる。
そんなこともあるのかと、娘が生まれたときには思いもしなかった。
四歳になったマレアは、もう赤ん坊ではない。
自分の考えを持ち、好きなものがあり、嫌なことには眉を寄せる。
母親の本棚から好きな本を選び、俺が海へ出る支度をしていれば、いつ戻るのかと尋ねる。
そして、海を見に行くときには、当然のように俺の手を握る。
小さな手だ。
生まれたばかりの頃、俺の指を握りしめていた手。
あのときは、こんな風に自分から俺の手を引いて歩き、歩きたい場所へ連れて行こうとする日が来るとは想像できなかった。
「とう様、今日はどこまで行くの?」
「お前が歩けるところまでだ」
「じゃあ、ずっと行けるわ」
そう言って、マレアは得意げに笑う。
俺は思わず声を立てて笑った。
四歳の娘は、自分がどれほど愛されているか、まだ知らない。
俺が海を眺めるとき、その向こうに何を見てきたのかも。
船を操り、風を読み、荒れた波を越えてきた俺が、今では娘の歩幅に合わせて足を緩めることを、どれほど自然にかんじているかも。
マレアが生まれる前、俺にとって海は、どこまでも続く道だった。
けれど、今は違う。
海を見に行けば、娘が波を指さす。
風が吹けば、娘の髪が揺れる。
美しい夕焼けに出会えば、娘が俺を見上げて尋ねる。
「とう様、きれいね」
「ああ、きれいだな」
そう答えながら、俺が見ているのは海だけではない。
海を美しいと思い、そのことを俺と分かち合おうとしている、小さな娘の横顔だ。
四歳のマレアは、まだ俺の胸にもたれれば眠ってしまうほど小さい。
けれど、いつかこの子も自分の足で歩き、俺の知らない景色を見るようになるのだろう。
その日が来ることを、寂しく思わないと言えば噓になる。
それでも、今はまだ。
小さな手を握り、娘の歩幅に合わせて海辺を歩く。
俺の隣には、ダイアナに良く似た顔をした娘がいて、ときどき俺そっくりの笑顔を見せる。
そして、砦へ戻れば、あの娘の母親が待っている。
これ以上、何を望むことがあるだろう。
マレアは何かを思いついたらしく、握っていた手を引いた。
「とう様、明日も海を見に来ようね」
「ああ。明日も来よう」
娘は満足そうに頷き、また前を向いた。
その濃い栗色の髪が、夕方の風に揺れている。
俺はその小さな背中を見つめながら、四年前のあの日を思い出していた。
この手に初めて抱いた、小さな命。
あの日から、俺の世界は少しずつ変わった。
海は変わらずそこにある。
けれど今の俺には、帰りたい場所がある。
愛する妻と、妻によく似た娘が、待つ場所が。
そして、娘が笑うたび、俺は何度でも思うのだ。
――この子が生まれてきてくれて、本当に良かった




