第51話 変わっていく日々
マレアが三歳になった日。
秋の気配が砦を包み始める頃、トーマスは新しい暮らしを始めた。
六十代を迎えた彼の身体には、かつてのような張りがなくなっていた。
港を歩く足取りはゆっくりになり、長く働いた日の夕方には、椅子に腰を下ろしたまま目を閉じていることも増えた。
本人はまだまだ働けるつもりでいたし、実際、港の者たちにとって彼は今も頼りになる存在だった。
船のこと、潮のこと、島の人々のこと。
トーマスの知識を必要とする場面は、いくらでもあった。
けれど、ダイアナとカイルは気づいていた。
彼が以前よりも疲れやすくなったこと。
階段を上がるとき、ほんの少し息を整えるようになったこと。
そして、一人で暮らす彼の家を訪ねる度、食事の支度も身の回りのことも、以前ほど行き届かなくなっていることに。
ある晩、マレアが眠ったあと、ダイアナはカイルに話した。
「トーマスに、砦で暮らしてもらいたいの」
窓の外には、月明りに照らされた夜の海が広がっていた。
カイルは手にしていた書類を置き、妻を見た。
「俺もそう思っていた」
あまりにあっさりと返事をされて、ダイアナは少し目を丸くした。
「あなたも?」
「最近、港で話をしていても、以前より疲れた顔をするようになった。
本人は何も言わないが」
「そうなの。私の前でも、いつもどおりに振舞うのよ」
ダイアナは小さく息をついた。
幼い頃から、トーマスはずっとそばにいてくれた。
父を失ったあとも。
母を失ったあとも。
頭領として立たなければならなかった彼女が、どうしようもなく心細くなった時も。
トーマスは決して多くを語らず、ただそこにいてくれた。
その彼が年を重ね、少しずつ老いていく。
それを寂しく思わないわけではなかった。
けれど、だからこそ、今度は自分たちが彼を支える番なのだと思った。
「トーマスには、もう少し自分のことを大切にして欲しいわ」
「そう伝えれば、トーマスは大げさだと言うだろうな」
「ええ。きっとね」
二人は顔を見合わせて笑った。
そして翌日、カイルが話をもちかけると、案の定、トーマスは渋い顔をした。
「俺はまだ自分の家で暮らせる」
「暮らせるかどうかの話じゃない」
カイルはきっぱりと言った。
「俺たちが一緒に暮らしたいんだ」
「お前たちは忙しいだろう。俺の世話までしている暇はない」
「誰が世話をすると言った。砦に部屋を用意する。
それだけだ」
「同じことだろう」
「違うな」
カイルは腕を組んだ。
「マレアも喜ぶ。あの子はトーマスが好きだからな」
その言葉に、トーマスは口をつぐんだ。
実際、マレアは彼が砦を訪れるたび、目を輝かせて駆け寄っていく。
まだ幼いながら、トーマスが自分の話を辛抱強く聞いてくれることを知っているのだ。
「人の逃げ道を塞ぐのが上手くなったな」
そう言いながらも、トーマスの顔には、わずかな笑みが浮かんでいた。
結局、彼は砦で暮らすことになった。
―
マレアが三歳の誕生日を迎えた朝、砦はいつもより賑やかだった。
窓辺には花が飾られ、食堂にはマリーが用意した焼き菓子が並んでいる。
ささやかな贈り物もいくつか用意されていた。
その中で、マレアがいちばん喜んだのは、トーマスが自分の部屋に移ってきたことだった。
「トーマスは、ずっとここにいるの?」
「ああ。これからはな」
「毎日?」
「毎日だ」
マレアはしばらく考えた。
それから、ぱっと顔を輝かせた。
「じゃあ、明日もお話してくれる?」
「もちろんだ」
「明後日も?」
「そうだな」
「その次の日も?」
「マレアが話を聞きたいなら、いくらでも聞かせてやる」
その返事を聞くと、マレアは満足そうに笑った。
トーマスはその小さな身体を抱き上げた。
以前より、腕にかかる重みが増している。
三年前、この子が生まれた時、カイルは大きな手で恐る恐る娘を抱いた。
あの時の小さな赤ん坊が、今では自分の言葉で希望を伝え、明日の約束を取り付けるまでになった。
「大きくなったな」
トーマスが言うと、マレアは得意げに胸を張った。
「うん」
その声を聞きながら、トーマスの胸には、遠い日の記憶が蘇っていた。
まだ幼かったダイアナも、こうして彼に抱っこをせがんだ。
仕事の途中であろうと、手が塞がっていようと、お構いなしだった。
小さな手を伸ばし、抱き上げてもらうまで、彼のそばを離れなかった。
そして抱き上げてやると、満足そうに首に腕を回した。
あの頃のダイアナは、海の向こうに何があるのかと尋ね、船はどうして浮かぶのかと尋ね、答えてやると
、すぐに次の疑問を見つけた。
今、腕の中にいるマレアも同じだった。
濃い栗色の髪、青緑色の瞳。
小さな顔に浮かぶ、何かを知りたくてたまらないという表情。
ダイアナが幼い頃に見せた面影が、そこには確かにあった。
トーマスはマレアを抱く腕に、そっと力を込めた。
「どうしたの、トーマス?」
「いや。お前の母さんも、小さい頃はよく抱っこをせがんだものだと思ってな」
「お母様も?」
「ああ」
「おかあ様も、抱っこしてって言ったの?」
「何度もな」
マレアは目を丸くした。
普段、執務室で大人たちと難しい話をしている母が、自分と同じように抱っこをせがんでいたなんて
、想像もつかないのだろう。
「おかあ様、赤ちゃんだったの?」
「誰でも最初は赤ん坊だ」
「おとう様も?」
「もちろんだ」
マレアはくすくすと笑った。
その笑い声を聞いて、トーマスも笑った。
年を取ったと感じることは増えた。
けれど、こうして新しい命の成長を間近に見ていると、老いることは、ただ失っていくことばかりではないのだと思えた。
自分が知っている昔のダイアナを、この子に伝えることができる。
彼女が頭領になる前の、誰かに抱き上げてもらうことを喜んでいた小さな女の子だった頃を。
それは、長く生きてきた自分にしか出来ないことだった。
もっとも、三歳になったマレアとの暮らしは、微笑ましいことばかりではなかった。
「おかあ様、どうして船は浮かぶの?」
朝の執務室で、ダイアナは書類に目を通していた。
膝元では、マレアが椅子に座り、母の仕事を眺めている。
「水が船を支えてくれるからよ」
「どうして水が支えるの?」
「それはね……」
ダイアナは筆を置いた。
どう説明すれば、三歳の子どもに伝わるだろう。
「船はね、とても重いでしょう。でも、船の形を工夫すると、水が押し返してくれるの」
「どうして押し返すの?」
「それは……」
マレアは青緑色の瞳をまっすぐ母に向けていた。
その目は、答えを聞くまで諦めるつもりがないと告げている。
ダイアナは思わず笑ってしまった。
「マレアは、どうしてがたくさんあるのね」
「だって、知りたいんだもの」
「そうね。とてもいいことよ」
そう答えながら、ダイアナは次の会議の時刻を思い出していた。
午前中にはエドガーたちとの打ち合わせがあり、午後には港から届く報告に目を通さなければならない。
できることなら、娘の疑問に一つずつ答えてやりたい。
けれど、頭領としての仕事も待ってはくれなかった。
「マレア、今は少しだけ静かにしてくれる?
お母様はお仕事をしなくてはいけないの」
「どうして?」
思わず、ダイアナは顔を上げた。
マレアはキョトンとしている。
どうして静かにしなくてはいけないのか。
どうして母は自分の話を聞いてくれないのか。
どうして、今すぐ一緒にいてくれないのか。
幼い彼女には、まだその違いがよくわからない。
「お母様のお仕事が終わったら、一緒にお庭へ行きましょう」
「今がいい!」
マレアの声が大きくなった。
「今、行くの!」
「マレア」
「いや!」
小さな手が机の端に置かれていた紙を引っ張った。
ダイアナは慌てて書類を押さえた。
「これは大切な書類なのよ。引っ張ってはいけないわ」
「マレアも見たいの!」
「見るのはいいけれど、紙を引っ張ってはいけないの」
「いやあ!」
とうとうマレアは泣き出した。
自分でやりたい。
自分で決めたい。
けれど、思い通りにならない。
三歳の小さな胸には、どうにもできない悔しさがいっぱいに詰まっていた。
ダイアナは娘を抱きしめようとしたが、マレアは身体をよじって抵抗した。
「おかあ様、いや!」
「わかったわ。今は抱っこしたくないのね」
ダイアナは無理に抱き上げなかった。
その代わり、娘のそばにしゃがみ、泣き止むのを待った。
やがてマレアはしゃくり上げながら、母の袖を握った。
「……お庭」
「ええ。仕事が終わったら行きましょう」
「約束?」
「約束よ」
ダイアナは娘の額に口づけた。
そのとき扉が開き、カイルが顔を出した。
「どうした?」
「少し、思い通りにならなかったの」
ダイアナが苦笑すると、カイルは床に座り込んだ娘を見た。
「マレア、どうした?」
「おかあ様が、お庭に行ってくれないの」
「そうか。お母様には仕事がある」
「いやなの!」
カイルは娘の前にしゃがんだ。
「嫌なのはわかった。だが、今すぐ行くことはできない」
父の声は穏やかだったが、曖昧ではなかった。
「お母様との約束は、仕事が終わってからだ。それまで待つ」
マレアは唇を尖らせた。
「おとう様も、いや?」
「俺は嫌じゃない。マレアが泣いても、約束は変わらない」
その言葉に、ダイアナは小さく笑った。
カイルは娘を甘やかすだけではない。
けれど、突き放すこともしなかった。
「それに、俺も港から戻ったばかりだ。
マレアと少し話をしたい」
マレアは涙に濡れた顔で父を見上げた。
「おとう様、お船に行ったの?」
「ああ」
「大きなお船?」
「大きな船も、小さな船もあった」
「マレアも行きたい!」
「それなら、今度、俺と一緒に港へ行こう」
「ほんとう?」
「約束する」
たちまち、マレアの顔に明るさが戻った。
ダイアナはその様子を見ながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
さっきまであれほど泣いていたのに、興味のある話が一つ出てくるだけで、もう次の楽しみを見つけている。
この子の世界は、毎日少しずつ広がっているのだ。
そして、その世界を広げてやりたいと思う気持ちと、親として教えなければならないことの間で、自分たちも学んでいる。
子育ては、思っていた以上に難しかった。
―
その日の夕方、ようやく仕事を終えたダイアナは、約束どおりマレアを庭へ連れて行った。
秋の風が頬を撫で、庭の草花を揺らしている。
マレアは母の手を握り、歩き始めた。
けれど、庭の入り口まで来たところで、ふいに手を離した。
「マレア、待って」
「ひとりで行ける!」
そう言って、娘は小さな足で走り出した。
石畳のわずかな段差につまずき、よろめき、転んだ。
ダイアナは思わず駆け寄ろうとしたが、マレアは自分で立ち上がった。
「できた!」
転んだことなど忘れたように、誇らしげに振り返る。
ダイアナは足を止めた。
助けてあげたい。
危ないことから守ってあげたい。
けれど、この子は少しずつ、自分の足で歩こうとしている。
母親の手を必要としながら、母親の手を離そうともしている。
その矛盾した姿が、たまらなく愛おしかった。
「ええ、上手に立てたわね」
ダイアナが笑うと、マレアは嬉しそうに駆け戻ってきた。
そして、何のためらいもなく、両腕を伸ばした。
「おかあ様、抱っこ!」
ダイアナは娘を抱き上げた。
さっきまで、一人でできると胸を張っていたのに。
自分で歩きたい日もあれば、抱き上げてもらいたい日もある。
きっと、明日もそうなのだろう。
「重くなったわね、マレア」
「マレア、三歳になったもの」
「そうね」
母の首に腕を回し、満足そうに頬を寄せた。
庭の向こうから、二人の姿を見つけたカイルが歩いてくる。
その後ろには、ゆったりとした足取りのトーマスがいた。
港の仕事を終えたカイルは、明日の船の訓練についてトーマスに相談していたらしい。
「お母様に抱っこしてもらっているのか」
カイルが声をかけると、マレアは父に向って手を伸ばした。
カイルは娘を受け取った。
大きな腕に抱き上げられると、マレアは父の肩に頬を寄せた。
「おとう様、明日、お船に行くのよね?」
「ああ。約束したからな」
「トーマスも?」
トーマスは目を細めた。
「俺も一緒に行こう」
「明日が楽しみ!」
その声が、夕暮れの庭に響いた。
ダイアナはカイルの隣に立ち、娘を見上げた。
「毎日、こんな調子ね」
「そうだな」
「質問ばかりして、自分で何でもやりたがって。できないと怒ってしまうの」
「俺たちも、毎日勉強だ」
カイルはそう言って、隣に立つ妻の顔を見た。
「だが、悪くはない」
ダイアナは彼を見た。
「大変なのに?」
「大変なのと、幸せなのは別の話だ」
カイルは娘の背中を大きな手で撫でた。
「マレアが何を考えているのか、何を知りたいのか。
俺たちが少しずつ知っていけばいい」
その言葉に、ダイアナは静かに頷いた。
砦には、頭領として果たさなければならない仕事がある。
港には、カイルを待つ船と人々がいる。
明日になれば、また二人はそれぞれの務めに戻るだろう。
マレアはきっと、朝から新しい疑問を見つけ、出来ないことに腹を立て、出来たことを誇らしげに報告する。そして、疲れた夕方には、誰かの腕の中へ戻ってくる。
三年前、この子が生まれた日から、二人の暮らしは変わった。
自分たちだけの時間は減り、思い通りにならないことは増えた。
けれど、食卓で笑い声が上がること。
小さな足音が廊下を駆けていくこと。
昨日できなかったことを、今日できるようになること。
そんな一つ一つが、二人の知らなかった喜びを運んできた。
そして今、砦にはもう一人、家族が増えた。
トーマスがそこにいる。
幼いダイアナを知り、彼女が歩んできた年月を見守り、今度はその娘の成長を見届ける人がいる。
彼が年を重ねたことを、ダイアナは寂しく思う。
けれど、彼がここにいてくれることを、心から嬉しく思っていた。
「トーマス」
ダイアナが呼ぶと、彼は振り返った。
「これからも、マレアにいろいろ教えてあげてね」
「もちろんだ」
トーマスは答えた。
「この子には、まだ教えてやりたいことが山ほどある」
「良かった」
ダイアナは微笑んだ。
その横で、カイルがマレアを抱き直す。
「さあ、そろそろ中に入るぞ。
夕食の時間だ」
「マレア、おなかすいた」
「それなら、しっかり食べろ」
「自分で食べる」
「わかった。自分で食べろ」
得意げに頷いたマレアを見て、ダイアナとトーマスは顔を見合わせた。
きっと今夜も、食事の途中で何かをこぼすだろう。
思い通りに食べられず、怒るかもしれない。
それでも、明日はまた新しい一日が始まる。
三歳になったばかりのマレアの世界は、これからもっと広がっていく。
その小さな背中を見守りながら、ダイアナとカイルもまた、親としての時間を一歩ずつ歩き始めていた。




