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第50話 願い

その朝。アステリアの海は穏やかだった。

夏の名残を留めた陽射しが、港の水面に金色の道を作っている。

けれど、吹き抜ける風には、もう秋の冷たさが混じっていた。

島を囲む山々も、朝霧の向こうに静かに色を変え始めている。


トーマスは、いつもより早く港を見下ろす丘にある砦の私邸を訪れていた。


昨夜、ダイアナが女の子を産んだ。

知らせを受けたのは夜も更けてからだった。

長いお産になったと聞いていたから、無事に生まれたと知らされたときには、思わず安堵の息が漏れた。


ダイアナも、子どもも無事だという。

それ以上に望むことなどなかった。

それでも、朝になれば顔を見に行こうと思った。


頭領の娘として生まれたダイアナを、トーマスは生まれたときから知っている。

父親が海へ出るたび、帰りを待つ彼女の姿を見てきた。

母親を亡くした後も、父親を海難事故で失ったあとも、彼女は泣きながら、それでも前を歩いてきた。


やがて島の頭領になり、レオンと結婚し、そして夫を亡くした。

その長い年月を思えば、今こうして彼女が無事に子どもを産んだということが、トーマスには不思議なほど感慨が深かった。


あの小さかったダイアナが、母親になったのだ。

トーマスは寝室の扉を静かに叩いた。


「入るぞ」


返事を待って扉を開けると、窓辺の寝台にカイルが腰を下ろしていた。

腕の中には、小さな赤ん坊がいる。

トーマスは、思わず足を止めた。

カイルはいつもの衣服ではなく、簡易な寝衣を着ていた。

少し乱れた濃い栗色の髪に、眠ってはいないのだろう、いくらか疲れの残る顔。

けれど、その琥珀色の瞳は、腕の中の赤ん坊に注がれていた。

まるで、ほかのものが何も目に入らないようだった。

大きな身体をした男が、小さな布の包みを壊れもののように抱いている。


トーマスは、思わず笑みを浮かべた。


「ずいぶんと大事そうに抱いているな」


カイルが顔を上げた。


「起こさないようにしている」

「そうか」

「少し動くと目を覚ますんだ」


そう言いながらも、カイルの腕は赤ん坊をしっかりと支えていた。

トーマスは寝台へ近づいた。

生まれたばかりの子どもは、驚くほど小さかった。

顔はまだ赤みを帯び、閉じた瞼の下では、時折、眼球が動いている。

小さな鼻と、薄い唇。布から出た手は、カイルの胸元で頼りなく握られていた。


こん何も小さな命が、ダイアナの中で育っていたのか。

トーマスはしばらく、その顔を見つめた。


「……女の子か」

「ああ」


カイルの声は、いつもどおり落ち着いていた。

けれど、トーマスには分かった。

この男は、まだ自分の身に起きたことを、すべて理解しきれていないのだ。

父親になった。

その事実を頭では分かっていても、腕の中にいる子どもの重みが、まだ信じられないのだろう。


「ダイアナは、よく頑張った」


カイルはそう言って、妻の眠る寝台へ目を向けた。

ダイアナは静かに眠っていた。

淡い栗色の髪が枕に広がり、疲れた頬には、いつもより血の気が少ない。

それでも、その顔には穏やかな安らぎがあった。


長いお産だったと聞いた。

夜通し続いた痛み。思うように進まない時間。

そばにいたカイルが、どれほど心を痛めたかは想像できる。


トーマスは寝台のそばに立った。

そして、眠っているダイアナに向かって、ただ一言だけ告げた。


「良かったな」


それ以上の言葉は必要なかった。

ダイアナの瞼がかすかに動いた。

目を開けた彼女は、トーマスを見つけると、ほんの少し笑った。


「……来てくれたのね」

「ああ」

「この子が生まれたのよ」

「見れば分かる」


いつもの調子で答えると、ダイアナは小さく笑った。

トーマスは、その笑顔を見て胸の奥が温かくなるのを感じた。

彼女はもう、あの頃の少女ではない。

けれど、こうして笑う顔には、幼い頃の面影が残っていた。


「ゆっくり休め」

「ええ」


ダイアナは目を閉じた。

カイルが赤ん坊の背をそっと撫でる。

トーマスはその姿を、しばらく黙って見つめていた。


―

子どもが生まれてから七日目。


アステリアでは、頭領の子どもに名前を与える式が執り行われた。

島には古くからの習わしがある。

新しい命は、ただ父母の子として生まれるだけではない。

島の海と土地に迎えられ、先祖から受け継いだ歴史の中に、その存在を刻まれる。


頭領の子であれば、なおさらだった。


名前は、その子が生きていくための最初の贈り物である。

そして、ダイアナとカイルは、妊娠中から一つのことを決めていた。


この子の名付けは、トーマスに頼もう。


ダイアナにとっては、父親を亡くしたあとも、ずっと島での暮らしを支えてくれた人。

海のことを教え、頭領として生きる彼女を見守ってきた人だった。

カイルにとっても、トーマスは特別な存在だった。

島に来たばかりの頃、彼はカイルに船のことを教え、ともに海燕号を造っている。

言葉にしなくても分かり合える、父親にも似た男だった。


二人は、そんなトーマスに、自分たちの子どもの最初の贈り物を託したかったのだ。

式の朝、トーマスは少しばかり落ち着かない気持ちでいた。


海辺に近い広間には、島の古い旗が掲げられていた。

濃紺の布地に銀の海鷲、そして銀の三本の波。


窓の向こうには、秋の光を受けた海が広がっている。

ダイアナはまだ産後の身体を休めながらも、式のために身支度を整えていた。

カイルがそばにつき、赤ん坊は柔らかな布に包まれている。


トーマスは二人の前に進み出た。

カイルは、腕の中の子を見下ろしてからトーマスに目を向けた。


「頼む」


短い言葉だった。

だが、その中には二人の思いが込められていた。

トーマスは頷いた。

そして、赤ん坊の顔を見た。

七日前、寝室で初めて見たときと同じ、小さな顔。

あの朝、カイルの大きな指を握っていた手は、今も布の中で握りしめられている。


この子は、どんな人生を歩むのだろう。

いつか島の海を知り、風の向きを覚え、父親の船を見上げる日が来るのだろうか。

母親のように、誰よりも強く島を愛するようになるのだろうか。

あるいは、二人のどちらとも違う、自分だけの道を見つけるのだろうか。


分からない。

分からないこそ、名前に願いを込めることができる。

トーマスは、そっと赤ん坊の額に手をかざした。


「この子の名は、マレア」


静かな声が広間に響いた。


「海のように深く、波のように絶えず、己の道を歩む者となるように」


それは、彼が長い時間をかけて選んだ名前だった。


海に生きる島の子として。

ダイアナとカイルの娘として。

そして、いつか自分自身の人生を選び取る一人の人間として。


「マレア」


ダイアナが、その名を口にした。

声には、柔らかな喜びが滲んでいた。

カイルもまた、娘を見つめながら、その名を繰り返した。


「マレア」


初めて呼ぶ名前ななおに、どこか前から知っていたような気がした。

トーマスは、二人の顔を見た。

ダイアナは穏やかに微笑み、カイルは娘を抱く腕に、わずかに力を込めていた。

その姿を見ていると、トーマスの胸に懐かしい記憶が浮かんだ。

まだ幼かったダイアナが、父親のあとを追って港を走り回っていた頃。

転んで膝を擦りむき、泣きながら、それでも海を見たいとせがんだ少女。

いつか彼女が母親になる日が来るなど、あの頃は考えもしなかった。


まして、自分がその子どもの名前を与えることになるとは。

人生とは、不思議なものだった。

失われたものがあり、去っていく人がいる。

それでも、時は流れ、新しい命が生まれ、次の世代へと繋がっていく。

トーマスは、マレアの小さな顔を見つめた。


「よく来たな、マレア」


今度は、式のためではなく、一人の人間として語りかけた。


「ここがお前の故郷だ。海も、風も、みんなお前を待っていた」


赤ん坊は答えなかった。

ただ、小さな口を動かし、眠ったまま、手を握りしめている。

カイルがその手をそっと包んだ。

トーマスは、その光景を目に焼き付けるように見つめた。


心から嬉しく思った。

トーマスはカイルに目を向けた。


「大切にしろよ」

「ああ」


カイルは迷うことなく答えた。


「言われなくても、そのつもりだ」


その言葉に、トーマスは笑った。


「そうだろうな」


窓の外で、風がアステリアの旗を揺らした。

濃紺の布地に描かれた銀の海鷲が、秋の空へ向かって羽ばたくように見えた。


マレア。


その名は、アステリアの海とともに、島の歴史に刻まれた。

そして、トーマスの胸にもまた、一つの記憶が刻まれた。

あの朝、カイルの大きな腕の中で眠っていた小さな女の子。

自分が名前を与えた、ダイアナとカイルの娘。

いつか大きくなった彼女が、自分の名前の由来を尋ねる日が来たら、話してやろう。


彼女が生まれた夜のこと。

父親が、初めて娘の小さな手に指を握られたときのこと。

そして、母親が、長い苦しみの後に、どれほど幸せそうな顔で娘を見つめていたかを。


トーマスは、もう一度、マレアを見た。

海は今日も、変わらずそこにある。

そして新しい世代の物語が、静かに始まろうとしていた。

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